ガソリン給油量 10.9L | 給油回数4回 | ガソリン代 1918円 | 総走行距離 296.2 km / ダート走行距離 58.9 km | トップへもどる |
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その後も牧草地帯の傍に広がる森の中をフラットダートで快適に突き進む北隆林道。すれ違う車もないまま、林道独り占め状態で気持ち良く進んでいきますが、しかし、左右の路肩に目を向けると、そこに一歩も立ち入る隙間のない猛烈な藪の壁が連なっていたのは、さすが北海道の林道らしいといったところかな。
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林道の路肩に迫る猛烈な藪。優に人の背丈を超える高さでオオイタドリが繁茂し、地面はクマザサでびっしりと覆われて全く立ち入る隙間がありません。今にも藪の奥から怖い森のクマさんが飛び出してきそうですが、北海道の山で遭難すると、このような藪に遮られて簡単には出てこれないんだろうなぁ・・・。
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おや、行く手に橋が現れました。跨いでいるのは林道に並行して流れる「音稲府(おといねっぷ)川」で、架かっているのは「北隆第1号橋」。北隆林道を示す林道標は未だもって現れませんが、橋名に「北隆」の文字があったことから、ここは北隆林道で間違い無いことを半ば確信します。
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橋上から眺めた音稲府川。「音稲府」は「おといねっぷ」と読み、アイヌ語の「オ+トイネ+プ」で「河口+土で汚れている+もの(川)」の意味で、「濁った泥川」や「漂木の堆積する川口」を意味するそうです。しかし、流れる水は澄んでいて、アイヌ語の地名由来のように土で濁っている様子は別段ありませんでした。 ちなみに「おといねっぷ」地名は上川地方北部の「音威子府村」やJR宗谷本線の「音威子府駅」がよく知られていますが、この川は音威子府ではなくて「音稲府」と表記するのが珍しいですね。もしや天塩川支流の同名の音威子府川と区別するため? なお、橋の欄干には河川名が音稲子府川と記されているのですが、それはおそらく誤記載で、正確には音稲府川だと思われます。 |
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続いて1.4キロほど先で今度は「北隆2号橋」を渡りますが、跨いでいるのは音稲府川支流の「音稲府第四川」。紛らわしいですが、林道に並行して流れる音稲府川本流ではないみたいです。そして欄干に表記されていた音稲子府第四川という河川名ですが、これも音威府第四川の間違いでしょう。
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橋上から眺めてみた音稲府川支流の音稲府第四川の流れ。「川」というよりも「沢」と呼んだ方が相応しいささやかな流れですが、森の中を流れ下る水は澄んでいてとてもきれい。これならヤマベ(ヤマメ)やマスが棲んでいそうだな。
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続いて3ヶ所目となる「北隆3号橋」を渡りますが、跨いでいるのは林道沿いに流れる本流の「音稲府川」。3号橋を建設するにあたって1号橋と2号橋の河川名表記の誤りに気づいたのか、欄干には河川名が音稲府川と正しく記されています。
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その後もイイ感じで、森の中を小気味良くどこまでもストレートが続く北隆林道の極上ともいえるフラットダート。いわゆる林道的な険しさは皆無で鼻歌混じりで進めてしまいますが、それもそのはず。北隆林道はかつて音稲府川上流に存在していた北隆鉱山への鉱山軌道跡らしく、そのため急カーブや急勾配がないというわけ。
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気分良く快適にダートを進んでいくと、やがて路肩に大きな地図看板が立っているのを発見! もしやと思い駆け寄って眺めてみると、なんと、それはかつてこの地に存在していた北隆鉱山の「鉱山マップ」でした。 残念ながら、北隆鉱山跡に至るまでの区間に北隆林道を示す林道標は現れませんでしたが、鉱山跡が現れたということは、それすなわち「ここは北隆林道である!」ことに間違いありません! そしてこれより先がかつての鉱山エリアで、現在の北隆林道沿いに坑夫の社宅や、様々な鉱山関係施設が立ち並んでいたようです。 |
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林道路肩に掲げられていた操業当時の北隆鉱山マップです。そこには「北見國採掘権登録第貮拾號 北見國紋別郡雄武村北隆鑛山 鑛区線及坑内外関係図 昭和拾四年拾貮月末日現在」と記されており、それによってこの地図が戦前の1937(昭和12)年12月当時の北隆鉱山のものであることが分かります。 従業員関係の施設としては、所長宅、職員住宅、鉱夫住宅、鉱夫飯場、供給所、北隆会館、風呂場、郵便局、床屋、診療所、学校、教員住宅、校庭、消防器具置場、神社、墓地があり、鉱山関係施設としては事務所、合宿所、精錬所、ボイラー室、発電所、機械室、工作所、大工小屋、重油庫、材料庫、倉庫があったみたいだな。 へえ〜、かつてこの場所に大勢の鉱山労働者たちが暮らした「鉱山集落」があったのか。だからこんな山奥に社宅や学校、それに銭湯や床屋があるわけですね。 |
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しかし、こんな人里離れた淋しい山の中にかつて鉱山町があったとはね〜。現在は当時の面影はほとんど失われていますが、道すがらには、かつてそこにあった施設を示す木杭の標識が立てられています。鉱山マップの看板を通り過ぎると、すぐになにかの施設跡らしき木杭が立っていましたが、え〜と、ここはなんの跡だろう?
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あわわ・・・っ! なんと、ここは墓地じゃないですか! しかも、一面雑草に覆われて廃墓地と化した古い墓地! そういえば、途中で地元の方に鉱山跡への道を訪ねたとき、ぼそっと「あそこは出るからなぁ・・・」と告げられてしまったのですが、うふふ、しかし、ここで心霊的なものはなにも感じなかったですよ。 なにせ墓地と言っても、ここは戦前の遠い昔にあった墓地の跡。現在はそうだと言われなければ、墓地があったなんて全く分からないほど自然回帰しているしね。 |
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鉱山墓地跡を過ると、その昔、鉱夫住宅が立ち並び、銭湯や学校、診療所があったというかつての鉱山集落のメインストリートを進んでいきます。やがて右折分岐が現れましたが、分岐していたのは北隆鉱山林道でした。
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右折分岐している北隆鉱山林道を示す木製看板タイプの林道標。本線である北隆林道の林道標が無いのに、なぜかその支線である北隆鉱山林道の林道標があります。
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北隆鉱山林道の入口の様子です。この林道は北隆林道の西側の山中を通って再び北隆林道へと戻るおよそ2キロほどの迂回ルート。したがって、地図上ではこちらに進んでも構わないはずですが、放置が続いているらしく、迫り出した灌木と地面の土が見えないほどの夏草まみれでこの有り様でした。というわけでここはパス。
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北隆鉱山林道分岐を過ぎると、ここでも音稲府川を左岸に渡る「北隆5号橋」を渡ります。先ほど北隆3号橋を渡ったので、順番からすると次は4号橋のはずですが、道すがらに何度も橋が現れるので、4号橋は見過ごしてしまったらしいです。
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北隆5号橋を渡ると、その150mほど先で「元北隆鉱山集落跡」の標柱が立っているのを発見! 現在は林道が通るだけの淋しい場所となっていますが、かつて金を採掘していた北隆鉱山と、その鉱山集落があったことは道すがらに立つ標柱から知ることができますが、参考までに北隆鉱山の歴史をざっと述べると以下の通り。 まず最初に北海道の金山についてですが、明治以降、道内の金山数は数カ所単位で推移していきますが、昭和になると1937(昭和12)年に勃発した日華事変などによる戦火拡大による軍資金需要を反映して急激にその数が増えていきます。 ちなみに音稲府川上流で北隆金山が発見されたのは1912(明治45)年頃と思われ、試掘が出願されたのは1916(大正5)年のことでした。 |
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当初、道内各地の金山経営は小資本で細々と行われていましたが、やがて政府の金増産政策により、住友や三菱、三井などの財閥資本によって本格的に経営されるようになります。北隆鉱山も1923(大正12)年頃に個人経営から久原鉱業株式会社との共同経営に移り、1927(昭和2)年には久原鉱業の単独経営になっています。 その後、1929(昭和4)年に久原鉱業は「日本鉱業株式会社」に商号を変更しますが、新興財閥を代表する日本鉱業は北海道の鉱山開発に積極的で、北隆鉱山の他にも徳星、大金、恵庭、大盛金山なども経営していたそうですよ。 戦争準備金としての金を獲得しようとする国の政策により、各地の金山では施設拡張と増産が図られ、北隆鉱山でも従業員数が一気に急増。鉱山集落の人口は2000人を数えるまでに膨れ上がりますが、1941(昭和16)年の太平洋戦争の開戦と同時に国の政策は急変します。すなわち、戦争開始がもたらした貿易途絶の影響によって、増産の対象となる金属が金以外の鉱物に大きくシフトしてしまったんですね。 その結果、北隆鉱山は金以外の軍需物資となる鉱物資源採掘に労力を振り向けるという1941(昭和16)年の「金鉱業整備令」によって金の採掘を停止。そのまま閉山されて無人の地と化してしまったというわけ。戦後、再び金の採掘をすべく採掘調査も行われたようですが、再開されることのないまま現在に至っているんだよな〜。 |
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うゎ、慰霊碑?! 鉱山集落跡を示す標柱の先にはなぜか「北隆鉱山 慰霊之碑」が建立されていました。慰霊碑の説明文には「物故者の霊を慰め」としか記されておらず、なぜか語られていませんが、これはおそらく鉱山操業当時の劣悪な労働環境による労働災害や強制連行で命を落とした方の霊を慰めるためのものだと思います。
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碑文 | ||
大正末期 金山発見 昭和参年 日本鉱業株式会社金 銀鉱採掘開始 精錬所建設 雄武町発展に貢献極めて大 昭和拾六年 国の金鉱業整備計画断行 閉山 爾来 歳月五捨有余年 二千有余人の集落の往時を偲び 物故者の霊を慰め 此に碑を建立し後世に伝える 平成六年十月吉日 北隆鉱山の碑保存会 |
大正末期に金山が発見され、雄武村の発展に大きく貢献した北隆鉱山。そんな北隆鉱山で亡くなった方を慰霊し、後世に伝える旨が碑文に記されていますが、金山の操業当時に犠牲となったのは主に次の方たちかな。 北海道の昔の労働問題といえば囚人使役が有名ですが、道内の金鉱山では囚人労働は行われなかったものの、その代わり「タコ」と呼ばれた募集人夫の使役、いわゆるタコ部屋があったらしいですよ。主として国の政策で戦争準備金としての金を増産するための拡張工事に関わる坑内外作業に従事させるためだったそうです。 そして忘れてはいけないのが「朝鮮人の強制連行」。北海道の金鉱山では全国に先駆けていち早く強制連行が実施され、北隆鉱山では1939(昭和14)年10月3日に小樽に連行された512名のうち30名が配属されています。 なお、朝鮮人労働者の賃金や待遇など労働条件は日本人労働者と比較して劣悪だったため、北隆鉱山ではその不満が紛争という形ですぐに現れています。すなわち1939(昭和14)年11月2日に雇用期間短縮および賃金値上げを要求してストを決行、会社側は雇用期間短縮は認めないものの、最低月収賃金を増額をすることとしています。 |
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北隆鉱山について | ||
一 所在地 北海道北見國紋別郡雄武村 二 沿革史 昭和二(1927)年十二月、日本鉱業株式会社の経営に移ってより鋭意探鉱に努めた結果発展に発展を重ね、 昭和十(1935)年には青化精錬場を新設し遂に今日の如き隆盛を見るに至る。 三 概観 鉱山の諸施設状況を概観すれば (イ)住宅、所員合宿、坑夫合宿、は完備す。 (ロ)国民学校、青年学校に於いては、従業員子弟を日夜教導す。 (ハ)医院には診療室、手術室を始め、太陽燈をも設備す。 (ニ)野球場、庭球場、柔剣道場等の運動場及撞球、卓球、囲碁等の娯楽機関も設備され 北隆会館に於ては映画会、演芸会、講演会等が開催さる。 (ホ)供給所は会社に依って経営され、日常品一切を供給す。 その他尚一切の福利施設が整備され従業員日常生活の充実が期されて居る。 日本鉱業界部式会社北隆鉱山絵葉書より |
慰霊碑の碑文には、従業員の福利厚生施設や、鉱山集落での生活環境が大雑把に記されていました。それによれば鉱山集落には野球場もあり、映画会や演芸会も開催されるなど、なかなか快適な生活が送れたようにも思えますが、その見かけとは裏腹に、実際には従業員とその家族は危険と隣り合わせの生活を送っていたようです。 すなわち1939(昭和14)年2月7日、冬季積雪期の北隆鉱山においてに雪崩が発生。雪崩によって坑夫住宅1棟が全壊して14名が即死する悲劇が起きています。冬の北海道で雪崩は宿命ではありますが、しかし、その危険性を無視して危険箇所に住宅を建設するなど、現在では考えられない生産第一主義の安全軽視があったんだよな〜。 |
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慰霊之碑を後にしてかつての鉱山集落内に延びる北隆林道のダートをたどって進むと、やがて「北隆6号橋」を渡ります。跨いでいるのは音稲府川支流の「音稲府第七川」。かつての鉱山集落内を流れる小さな川ですが、北隆鉱山が操業していた頃には音稲府川で鉱害問題も発生しています。 負の歴史である北隆鉱山の鉱害問題については、碑文でもなぜか全く触れられていませんが、精錬所が設置されて操業が開始されると、公害問題はすぐに発生しています。特に精錬法の発達により精錬過程で青酸カリや青酸ソーダを使用する「金泥湿式青化精錬法」が採用されるようになると、問題が多発したそうですよ。 もちろん、現在の音稲府川は水も澄み切って清冽そのものですが、操業当時にはおそらく鉱毒が垂れ流されたのでしょう。それに対して農漁民たちが死活問題として協同組合などに結集して当局へ陳情。その結果、北隆鉱山では1940(昭和15)年に漁業被害の解決金として2万3000(現在の価値で5980万円ほど)円が漁協に支払われています。 |
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さらに進んでいくと右の路肩に「神社跡」の標柱が立つ地点を通りがかりました。かつて鉱山集落の住民の方たちの信仰を集めていたのでしょう。しかし、今は林道の路肩には人の背丈を超える藪の壁が連なっているだけで、神社の痕跡すら確認できない始末。そりゃあ、金山が閉鎖されてから80年も経過すれば当たり前か・・・。
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神社跡を通過すると、今度は左折のダート分岐が現れました。分岐の傍には「元北隆鉱山」とだけ記された標柱が設置されているだけでしたが、左折分岐しているのは共立林道らしいです。しかし、残念ながら林道標はどこにも見当たらなかったです。
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かつての鉱山集落のメインストリートを進んでいく北隆林道から左折分岐する共立林道入口の様子。いかにも草深そうなダートが森の奥へと向かっていましたが、ここは延長距離6294mで道888へと抜けられる完抜けルートらしいです。しかし、放置臭が色濃く漂うその様子から、実際に通り抜けられるかは甚だ怪しいものだぜぇ・・・。
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