過酷な自然環境で飢饉も珍しくなかった三宅島 |
明治の時代になっても続けられた飢饉対策 |
[1]三宅島の歴史について知る [2]徳川幕府の三宅島支配と塩年貢 [3]三宅島の流人 [4]三宅島と飢饉 [5]三宅島と噴火 [6]ちょっと昔の三宅島 |
江戸時代、三宅島の中で耕地として利用されていたのは雄山の山麓部分だけでした。徳川幕府はそれ以外の利用価値の少ない土地を島民の二男、三男に与えて開墾させて少しでも年貢の徴収量を増やそうと図ります。土地を与えられた人々は二男百姓もしくは新百姓と呼ばれましたが、しかし、元々狭い島内の土地に耕作する農作物は度重なる自然災害で収穫量は少ないものでした。 農作物の収穫は時には無きに等しいこともあって、島民は常に飢餓と隣り合わせの生活をしていました。そのような状況なので飢饉の発生は珍しいことではなかったといいます。島民はアシタバの根や、ヤマイモ科のトコロの苦い根を食糧として露命をつなぐことに精一杯で、当然ながら流人の面倒までみる余裕はありませんでした。 ちなみに三宅島に残る流人帳には1239人の名が記録されていますが、島内での死亡原因のうち餓死は僅か15人だけで、大部分は「腹中相煩死亡」と記されています。このことは地役人が幕府に報告するさいの書類操作を疑わせますが、それでも腹中相煩死亡というのは空腹に耐えかねて口に入れられる物をなんでも食べた結果ですね。 それ以外の流人の死亡原因として海藻や貝を採るため海に落ちて死んだり、首吊り、入水自殺などもありますが、これもせっぱつまった食糧事情によるものでしょう。また、流人の島抜けは極刑で、成功率は低いのに禁を犯す流人が多かった事情の根底には、食糧難で死を待つよりは万一の成功に望みをかけてといった思いがあったようです。 徳川幕府の八代将軍徳川吉宗は全国で頻発する飢饉の惨事を憂いて、1727(享保12)年に甘薯(サツマイモ)の苗を試作させ、1735(享保)年に甘薯の種芋を飢饉の救荒食糧として伊豆諸島にも配布しましたが、三宅島には5個の種芋が送られたそうです。火山灰質の地質は栽培に適していたようで、これによって三宅島は宿命的な飢饉から解放され、島民は吉宗さんを芋将軍といって徳を称えたそうです。 三宅島の各村では飢饉対策として「穀物類の備蓄の励行」「間引きや堕胎による人口制限」「流人の妻帯禁止」などの手段を講じましたが、これらの飢饉対策は幕政時代だけではなくて、明治の時代を迎えてもなお続けられていたことが明らかになっています。凶作や飢饉の折には幕府や政府から御救拝借金として多額の金品を借用しましたが、それがまた島民をとても苦しめました。 |
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