竹内式部の墓
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  伊ヶ谷エリア
  伊ヶ谷エリアの見所スポット
     1伊ヶ谷港
     2大船戸大橋
     3為朝の袂石
     4井上正鐵の腰掛石
     5生島新五郎の墓
     6処刑場跡
     7大林寺
     8竹内式部の墓
     9不受不施派僧の墓

銅像と竹内式部の経歴が記された説明板が立っています

三宅島に流罪となり、そのまま島で没した署名な流人には竹内式部をはじめ、生島新五郎、井上正鐡、小金井小次郎の4名が挙げられますが、伊ヶ谷集落の大林寺の境内にあるのがそのうちの一人、「竹内式部の墓」です。

竹内式部はで本名を竹内敬持(たけのうちたかもち / 1712〜1768)といい、江戸中期の尊王思想家で神道を学び、軍学を研究して京都の公家たちに大義名分論を説いて兵学を教えたことから幕府に対する陰謀の嫌疑を受けて流刑になった人物ですよ。

よほど歴史に興味のある方以外はあまり馴染みのない式部さんですが、島流しで名も残っていない無宿者や犯罪者とは違い、島民の手によって篤く葬られています。お墓には経歴を記した説明板がお墓の横に立っているので読んでおきましょう。






境内に立つ大林寺の由来板
竹内式部の墓
竹内式部は江戸中期の国学者である。
正徳2年(1712年)越後国に生まれ、名を敬持といい、後には羞庵と号したが、通称、式部と呼ばれていた。

享保13年(1728年)16歳の折、京都に上り徳大寺家に仕えて
労役のかたわら重加流神道の勉学に励み、やがて家塾を開いて多くの門徒を抱えていた。
少壮の公卿が式部の感化をうけ武門政治を廃して、王政回復を志したために幕府の弾圧を受け獄に送られた。
これを宝暦事件という。

式部は京都を追われ伊勢に蟄居となったが、京都時代の知人、
藤井右門、山県大弐が幕府に対して不穏な言動をした罪によって、明和4年(1787)死罪となるに及んだ。
同時に式部も幕府の命により八丈島に流罪となったが、船中において発病した。
そのため11月20日伊ヶ谷村に上陸を余儀なくされ養生につとめたが、かなわず12月5日、56歳でこの地に没したのである。

この銅像は、式部ゆかりの地新潟県の「竹内式部を偲ぶ会」が中心になり、
新潟市並びに市教育委員会協賛のもとに完成したもので、昭和53(1978)年10月5日に除幕式が行われた。
三宅村
なるほどねぇ。元々は八丈島に流される予定だったのが、病のため三宅島に上陸してそのまま没してしまったのか・・・。

江戸時代の流罪人は江戸の永代橋や霊岸島、万年橋を出帆して浦賀番所で流人改めを済ませると、伊豆諸島の島々を伝って南下。途中の島々への流人を下船させながら三宅島に到着すると、八丈島送りの流人は全て三宅島で下船させられています。

その後、三宅村島役所の責任で船を雇い、順風を待ち、数ヶ月後にようやく八丈島へと送られることになっています。式部さんの場合は三宅島への航海中に発病してしまったので、正確には八丈島への移送の途中で亡くなったということですね。

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