中将院の石室
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     8湯浜遺跡

誰も訪れない淋しい場所にあった流人墓

樫立地区の中心から少し離れた川城羅地区にある中将院の石室です。「石室」などというので、その名を聞いた時には遺跡かと思ってしまいましたが、訪れてみるとそこは流人の墓でした。三原山山麓の淋しい畑の一角にポツンと古い墓石がありました。






完全に忘れ去られた雰囲気が・・・

流人って一般の村人とは異なりこんな場所に葬られたのか・・・。 一応、案内板も立っていますが、墓石の回りには雑草がぽつぽつと生えてお供えの花もありません。誰も訪れずに完全に忘れ去られた淋しいお墓です。






八丈島での中将院の活躍も記された案内板

中将院の石室(ちゅうじょういんのいしむろ)
中将院は、大納言坊城俊完卿の末子で、修験法を会得していた。
貞享2(1685)年3月罪科不明のまま八丈島に流罪となった。

当時、樫立村では毎夜鬼が出没して、通りかかりの女、子供に悪ふざけをしていたが、
彼がこれを退治して諏訪に庁に鎮め祀ってから、その気配がなくなった。
樫立村ではそれ以来、彼を神として尊崇してきたという。






お墓の脇には島の民謡の節が掲げられていました

たむけの唄でしょうか。中将院のお墓の脇には「春になりゃこそ 木の芽もめだつ 様も時節を 待つがよい」との八丈島の民謡「春山節」の節が掲げられています。

中将院は名家の家格を有する坊城家という公家貴族の出で、 11代坊城俊完 ( ぼうじょうとしまさ) の末子でしたが、 いったい彼になにが起きたのか分かりませんが、31歳の時に八丈島に流されています。 その後、 世をはかなんだのか、 36歳の時に島で一緒になった妻と火に入って自害してしまったそうです。

なお、 坊城家の家系は平成の現在も続いており、 明治17 (1884)年には当主に伯爵の地位が授けられています。

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