ガソリン給油量0L | 給油回数0回 | ガソリン代 0円 | 総走行距離 33.6 km / ダート走行距離 15.6 km | トップへもどる |
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道881から右折するとすぐに広大な牧草地が現れて、そこに延びる砂利ダートを突っ走っていきますが、そういえばここ大樹町は十勝開拓の発祥となった場所。 明治19(1886)年に、現在の大樹町「生花」地区で牧場経営のための最初の入植が行われましたが、それからおよそ140年。現在、酪農は大樹町の主な産業になっていて、人口のおよそ3.5倍の2万1000頭の乳牛が飼育されているらしいな。 |
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モオオ〜。道すがらの牧草地で草を食む乳牛さんです。白黒、または黒白のブチが特徴の「ホルスタイン」ですね。乳牛のイメージが強いドイツホルスタイン地方原産の牛ですが、北海道でホルスタイン種が最初に輸入されたのは1890(明治22)年のことで、今ではその子孫が全国に分散しているんだって。
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乳牛がたむろする牧草地のまっただ中を進んでいくとやがて左折分岐が出現。ここを左折すると生花(道881)に抜けられますが、まずは生花苗沼に向かって直進して、帰りがけに通ってみることにします。
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あー、それから、分岐の直進側にはシカ除けゲートならぬ乳牛脱走防止ゲートが設置されていました。一瞬、立ちってはいけない道なのかとも思いましたが、立ち入り禁止看板は設置されておらず、また、ゲートにはカギもかかっていなかったところをみると、ゲートはセルフ開閉で自由に通行できるらしかったです。たぶんね。
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乳牛脱走防止ゲートをセルフでオープンして、さらにダートを前進します。前方に左右に連なる森が見えていますが、生花苗沼はその森を超えた先に位置しています。ゲート地点から沼畔までは距離にしておよそ600mくらいかな。
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しかし、ダートは森の手前のこの地点で途切れてしまいました。ここは車両の引き返しのための小さな回転場スペースが設けられた牧草地への入口になっていて、この先に道はもうなかったです。というわけで予想は外れてしまい、森の向こうの生花苗沼にはたどり着けない事が判明。引き返すしかありませんでした。
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これはダートの終点にある牧草地への入口。ここは十勝農業協同組合連合会の「湧洞牧場」の牧草地らしかったですが、いわゆる育成牧場というやつですね。 育成牧場は全国の酪農家から生後6ヶ月以上の育成牛を預かって育て、妊娠状態にしてから返すのが主な仕事。観光牧場とか個人で経営している牧場ではないので、牛乳を搾ったり、バターを作っているわけではないですよ〜。 |
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帰路は行きがけに通った分岐を左折します。地理院地図には「五号」と記された砂利ダートですが、先述した通り、こちらに進むと広大な牧草地帯の景色を眺めつつダイレクトに生花(道881)へと抜けることができるので、大樹町の広大な牧草風景を間近に眺めたい場合はここを通りのがおすすめ。 ちなみに大樹町の「生花」という地名ですが、元は「生花苗(おいかまない)」でしたが、読みにくいということで、1960(昭和35)年の字名改正で「生花」と「晩成」に分割されています。沼の名称は生花苗なのに、付近の地名はなぜか生花なので「?」と思っていたのですが、そのような理由があったんですね。 |
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生花で道881に復帰したら、次は生花苗沼の東端および海岸を目指しますが、その途中に「晩成社の跡」があったので立ち寄ってみました。
道道をR336方向に進むとすぐに「生花苗川」を渡る「依田橋」があり、その直前に右折する未舗装路があるので、そこを右折すると晩成社の跡があります。
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晩成社と大樹 | ||
十勝開拓をめざした晩成社は、 明治15(1882)年1月1日西伊豆の那賀大沢村(現在の松崎町字大沢)で結成された。 明治16(1883)年依田勉三の率いた晩成社社員(13戸、27人)が横浜港を出港し、 下帯広村(現在の帯広市)に入植した。 明治19(1886)年この地当縁(とうべり)村生花苗(おいかまない)に 弟文三郎と共に牧場経営のために入植した。 開梱作業は大変困難を極めたが、 牛、馬、豚の飼育、養蚕、ハム製造、ばれいしょ、ビート、しいたけ、米の栽培、 木炭、練乳、バター、コンデンスミルク、かん詰の製造を試みた。 また、木工場を建設し、枕木、樽材等の生産を行なったが、いずれも成功しなかった。 明治42(1909)年には、生花苗沼を港湾にする計画を持ったが、実現に至らなかった。 しかし、不屈の精神で新しい事業に立ち向かい 大正9(1920)年には幕別町途別において米作に成功している。 このように十勝開拓を模索した依田勉三は、この地に大正4(1915)年まで住み、 大正14(1925)年帯広市の自宅にて73歳の生涯を閉じた。 昭和29(1954)年には、北海道開拓神社37番目の祭神としてまつられた。 いま、この地には次のものが残されている。 依田勉三住居 事務所後 サイロ跡 佐藤米吉の墓 もみじひら歌碑 祭牛の霊碑 井戸跡 室跡 祠堂 大樹町教育委員会 |
うむ、なるほど! 「晩成社」とは明治15(1882)年に十勝開拓のために設立された会社で、その晩成社の社員が入植して開梱し、経営する牧場があったのがこの場所なんですね。まさに十勝開拓の発祥の地となった記念すべき場所であり、そのため晩成という会社名は現在は地名になっています。
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サイロ跡 正面の二つの穴がサイロ跡です。 このサイロは、明治38(1905)年に造られたもので北海道最古の地上式コンクリートサイロであった。 明治19(1886)年8月、雄牛4頭、雌牛10頭を陸奥国(青森県)より購入、 明治末期の最盛期には牛200頭、馬130頭を飼育していた。 明治26(1893)年には函館に肉屋を開店、 明治34(1901)年にはホルスタインを導入・ 明治38(1905)年には練乳工場を設備して バター、ミルク、ハム大和煮等の缶詰製造を始めたが、 市場と離れていたため、軌道にのらなかった。 佐藤米吉の墓 大正3年(1914)年3月建立されたこの碑には次のように記されている。 「佐藤米吉は秋田県由利郡上川村、佐藤兼平の二男で遠くこの地に来て、伊藤菊松と一団となってトド山に行き、 伐木中に誤って木の下になり強く打って死んだようになって帰ってきた。 いろいろな医者を呼びに行ったが来てくれず皆で看病したが 6日目の明治23(1890)年3月19日ついに死亡した。 殉職した佐藤米吉のために大正3(1914)年3月依田勉三がこの墓を建てた」 墓跡は佐藤米吉の郷里より取り寄せたものである。 祭牛の霊碑 明治23(1890)年6月4日に建立されたこの碑には次のように記されている。 「今年3月に牛の飼料がないので出産間近な牛が多くいて、 外の牛は雪野に放っておいたら小屋のかや等をここ10日ほど食べさせる事になった。 野外で2頭、屋内で4頭落ちて2頭、子牛を6頭、死産が4頭、生後2頭、 相前後して成牛8頭、子牛12頭も死なしてしまった。 生き物を飼う者が飼料を貯えていなかったのはすべて飼い主の罪で、はなはだ大きい申し訳ない。 今後のいましめのために涙をふるって書き残す」 その悲嘆の情が忍ばれる。 もみじひら歌碑 〜 ふみまなぶ学びの子らがうえおきし 園生のもみじにほいそめけり 〜 明治19(1886)年下帯広村(現在の帯広市)よりこの地に入植した際、 もみじの美しい理想郷に育てようと名づけたと言われる。 明治43(1910)年春に勉三は、「十勝神社」と書いたクイを立てもみじを植え、 その後、大正3年(1914)年秋、赤くにおい染めたもみじの美しさに思わず詠んだ歌である。 晩成社の子弟か付近の子供たちが、もみじの苗木植えを手伝ったと推測される。 碑の建立は大正6年(1917)年、勉三自ら石を刻み、書は兄佐二平のものと言われる。 当時は1キロ離れた戊亥山に建立されたが、後にこの地に移設されたものである。 大樹町教育委員会 |
そして付近には晩成社の牧場関連の史跡や、開拓に若い命を捧げて事故死した佐藤米吉さんという社員のお墓があるようで、それを紹介する案内板もありました。
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この住居模型は依田勉三翁の住居 実物の1/10に縮小したものです。 住所、氏名を芳名帳に記入して下さい。 記入後は中にお戻し下さい。 俳句、投稿のお願い 俳句は投函箱に入れて下さい。 尚、文字は楷書でわかりやすく記入願います。 大樹町教育委員会 |
これは十勝開拓の祖でもあり、同時に晩成社の社長であった依田勉三さんの開拓当時の住居を模したという俳句の投函箱。 それにしても「なぜこのような場所に俳句の投函箱が?」と怪訝に思ってしまいますが、それはかつてこの地で依田勉三さんが歌を詠んだから。 しかし、いきなり俳句をと言われても、さすがになにも思い浮かばなかったぜぇ・・・。 |
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おや、苔むした古いお墓が並んで3基ありました。右の墓石は開墾作業中の事故で亡くなった佐藤米吉さんのお墓で、中央には冬に蓄えの飼料がなくて餓死した牛の慰霊碑。そして樹木に隠れしまいましたが、左の墓跡は・・・よく分からなかったです。
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かつて晩成社があった場所の周囲に広がる現在の牧場風景。明治の初期、先人たちが大変な苦労の末に開拓したこの地には、このように今ではなだらかな牧草地が一面に広がって、そして乳牛たちが群れて平和にまどろんでいるんだよな〜。
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晩成社の跡で十勝開拓時代に思いを馳せたら生花苗沼に向かって出発。晩成社の依田勉三さんにちなんで命名された道881の「依田橋」を渡ると、その先で生花苗沼の東岸伝いに海へと至る町道の入口があるのでそこを右折。その後道なりに進んで「キモントウ川」を渡った先で舗装が途切れて路面がダート化します。
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路面がダート化するとその直後に行手が二手に分かれます。右手に進むと生花苗沼に、左手に進めば昨日訪れた「湧洞沼」へと至るので右手に進みますが、標識の類は一切ないので初めてやって来ると少し迷うかもしれません。
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分岐を右手に進むと生花苗川流域の「豊頃丘陵」の森の中を進んでいきますが、路面は砂地質っぽいダート。雨上がりなので湿っており、砂地質ゆえ泥跳ねこそしませんが、ねっとりとタイヤに絡みつく感じで走り心地はまあまあかな。 そして海岸のそばでありながら、鬱蒼とした森の中を行くダートはまさに「林道」そのものですが、おそらくここは大樹町の「町道」なのだと思います。ただし、町道標の類は見当たらず、したがって町道名については不明ナリ・・・。 |
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