尾越の水汲場
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台ヶ原集落内にあった水汲場への道しるべ

末吉地区を横切る幹線道路の都215号線から離れて台ヶ原、 尾越集落内の静かな道を散策している途中で見つけた昔の水汲み場への入口です。絶海の孤島と言われた八丈島でかつてどのように飲料水を得ていたのか気になったので、「←尾越の水汲場」と記された道しるべに従って訪れてみました。






崖から染み出る清水を溜める水汲場

なんとなくジメっとした崖の場所が水汲場でした。崖下が小さく水槽のようにうがってあり、そこにコケの生えた岩肌から糸のようにポタポタと清水が流れ落ちて溜められています。かつて村人たちを潤してきた大切な命の清水ですが、意外と小さいです。






集落は水汲場を中心に形成されたと告げる案内板

尾越の水汲場
八丈町指定史跡
住所 / 八丈町末吉台ヶ原 指定 / 昭和51(1976)年5月11日
八丈島の集落の形成は、水汲場を中心になされていることが明らかである。
この水汲場は水量が豊富で水質もよく、現在もなお近所の人々に利用されていながら、
比較的よく原型が保持されており、水汲場考究の貴重な存在である。
この水は飲むことができません
八丈町教育委員会






水道が完成するまでは集落の貴重な水源であった水汲場

水道の普及した現在ではさすがに利用されておらず、清水が溜まるにまかせて水底に落葉が溜まっていましたが、昔はきれいに維持されていたと思われます。

流人であった近藤富蔵が八丈実記に「庭に井戸なく、近くの谷や小川の水を朝夕、女の人が汲み来るなり」 と記しているように、 昔はこのような湧水や川の水を飲み水や洗濯、牛の飼育に使っていました。水汲みは女性の仕事でしたが、水汲場が遠かったり、水量が少なかったりしたため、夏は朝の3時(夜中です!)頃に起きて日の出前から順番待ちをしたといいます。

八丈島に初めて水道ができたのは末吉地区で、 安政6(1859) 年のことで、 当時の地役人長戸路収蔵によって水道建設が開始されました。2キロ離れた水源から村とを木製の樋でつなぐ工事は1660人の人手と6年の歳月を要したそうです。その後、中之郷と樫立にも樋を使った水道が完成しています。

現在の上水道は昭和30 (1955) 年頃にできたものですが、 完成後には園芸や観光、家庭用に使用量が増大したため、断水や時間給水がたびたび発生。八丈町では大賀郷の八戸や大里地区、三根の片根山に井戸を掘削するなど水源を増やしたため、次第に水不足は解消されていったそうです。

昭和40 (1965)年頃には、 それまで雨水を生活用水としていた大賀郷の西見、 甚太、永郷地区、そして樫立の伊郷名地区にも水道水が送られるようになっています。






使われなくなった水汲場はヤモリのパラダイス!

昔から水の豊富な島と言われてきた八丈島ですが、それでも実際には相当苦労したようです。 現代、一人が一日に使用する水はおよそ500リットルですが、江戸時代の八丈島の人々は、 水桶一杯の僅か18リットルの水で一日を過ごしていたそうです。 しかもそれが一軒の家族全員分。もちろん水は料理や飲み水用で、洗濯やお風呂には使用できなかったことは言うまでもありません。

そのような貴重な水を供給し続けた水汲場ですが、のぞき込んでみると、役目を終えた水汲場はヤモリの楽園と化して水底はうじゃうじゃ状態でした。

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