江戸時代は本土との船の往来が制限されていた伊豆諸島 |
全ての島に定期航路が開設されたのは大正になってから |
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江戸時代には幕府の直轄地とされていた三宅島は8代将軍徳川吉宗さんの時代に制定されたお定書き百ヶ条(1742)によって流刑地とされ、本土からの船舶の行き来は、島民が生産した炭や魚介類、テングサなどを江戸に送り物々交換売却代金によって購入した米や食料品、衣類を輸送した幕府御用船と島の廻船のみに制限されていました。そして御用船や流人船などは全て伊ヶ谷村の大船戸湾を発着地点としていたようです。 明治20(1887)年には日本郵船の小笠原航路船が三宅島の大久保浜に寄港するようになり、明治24(1891)年には東京湾汽船(現東海汽船)との間で年間航路の協定を結んでいます。その後、明治33(1900)年5月に東京〜御蔵島航路が開設され、新島と三宅島に月1回で寄港するようになりました。さらに同年8月には通信大臣の郵便物輸送命令によって東京〜三宅島〜御蔵島間の郵便物輸送航路が命令航路に指定され、これでようやく月3回の船便が確保されました。 明治時代になって江戸時代の封建制度下の流刑地と縁を切った伊豆諸島は、航路の開設で東京と島との間の物資や人の行き交いが自由になり、それにつれて島民の生活も大きく変化していきましたが、明治〜大正期の東京湾汽船の運賃は以下の通り。明治時代の1円の価値を現在の2万円くらいとすると、おおよその運賃の高さがわかります。 東京〜大島 1円50銭 東京〜利島 1円80銭 東京〜新島 2円 東京〜神津島 2円20銭 東京〜三宅島 3円(現在の6万円くらい?!) 東京〜御蔵島 3円50銭 時代が下って大正元年(1926)には、それまでの八丈島航路が三宅島寄港八丈島定期航路とされて三宅島に寄港するようになり、伊豆七島全ての航路が確立されました。 また、太平洋戦争中の三宅島では昭和19(1944)年に島民の本土への疎開が開始されています。しかし、翌昭和20(1945)年に強制疎開の指令によって三宅島を出港した疎開船「萩丸」が島を離れた直後にアメリカ海軍空母艦載機の攻撃によって撃沈され、90余の人名が奪われる悲劇も起きています。 |
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