徳川幕府の三宅島支配と塩年貢
  三宅島の歴史 林道探索の書 〜今日もどこかで林道ざんまい〜 
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三宅島の島政は幕府の支配下で各村ごとに実施

御支配と村政
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三宅島は伊豆諸島の他の島々と同じく徳川幕府の天領(直轄地)で、伊豆韮山代官の御支配のもとに年貢の運上と賦役を負担してきました。幕府から発せられる様々な命令や通達事項は韮山代官を経由して三宅島に送られてきますが、逆に三宅島からの諸願書届などは地役人が江戸まで持参しなければならず、急を要する場合は「早船」といって船を雇いあげて江戸に向かいますが、当時の船は帆船なので風次第だったようです。

請願諸届を地役人が江戸まで持参しなければいけない理由は、代官をはじめ関係筋よりその説明を求められるからでした。寛永15(1638)年10月21日、地役人壬生甲斐守為村(壬生家45代当主)はこれらの用務で三宅島から江戸へと向かいましたが、途中、嵐で難破して殉職するという悲劇も起きています。

自治組織としての村政は、島全体を1本化したものと、島内のそれぞれの村との二重になっていたようです。したがって各村々からの諸願書届はまず島役人に提出するのが原則。その内容を島役所で調査検討したうえで代官へと伝えられるのが基本でした。

つまり、幕府は三宅島を行政の一単位として扱って支配していましたが、島内の事実上の自治は各村々で行われていたということですね。なお、一般行政以外の社寺関係については寺社奉行、犯罪関係については南北両奉行の支配下となっていました。






大船戸湾の入出港管理目的で設けられたのが陣所

陣屋行政
元和9(1623)年に徳川家光が3代将軍になると、幕府は幕藩体制の礎を築くべく諸制度を整備充実させましたが、幕府によって伊ヶ谷村の「大船戸湾」が修築工事されたのはちょうどその頃のことでした。大船戸湾はその後、御用船の入港地として義務づけられて三宅島海上交通の要所となり、享保8(1716)年に船の入出港を管理するために設立されたのが「陣屋」です。

陣屋の本来の目的は大船戸湾修築用の扶持米および島内の救助米を収納する倉庫的な役目でしたが、時代の推移とともに船の出入り、物資および配流者送致の取扱いが増大してきます。そのため地役人が常に待機して陸と海とをさえぎる関所の役割も果たすようになりました。陣屋は島政執行の行政センターとして明治維新まで存続し、この期の行政を「陣屋行政」とよんでいます。

陣屋設立当時の伊ヶ谷村の村勢は弱小でしたが、陣屋ができたことによって権力的にも経済的に勢いが増しています。その様子は当時、在島した流人が三宅島の5つの村を評した戯歌(ざれうた)の中で「伊ヶ谷は陣屋で金どころ」と唄われ、他の村民は伊ヶ谷村を大名部落とか陣屋部落と呼んだそうです。

この頃、他村の人々が伊ヶ谷村を通行するさいには履物をぬいで手に持って裸足のまま腰を屈めながら通り抜けたという伝説的な話が伝わっていますが、これは誇張ではなくて三宅島の歴史の中のウソのような本当の話。しかし、急成長を遂げた伊ヶ谷村の地役人や村役人が肩で風をきり、他村の人々に対してあまりにも傲慢な態度で接した結果、残る4ヶ村の名主と村民総代が「我慢ならぬ!」と連署して幕府に提訴。そのため免職の憂目にあっていたりします。






島方取締役が廃止、地役人制度ができたのは江戸時代初期

地役人
三宅島は天武7(679)年に島方取締役がおかれ、神主がこれを兼行して行政の執行にあたってきましたが、徳川幕府は代官の手代を島に配置して島方取締役を隷属させましたが、寛永15(1638)に徳川家光が3代将軍になると島方取締役は廃止。

島方取締役に代わって「地役人」の制度がしかれています。地役人は神主が兼行し、それに各村の名主、年寄が加わったものを「島役人」とよびましたが、それまで1000年ほど存続していた島方取締役が廃止されたことにはそれなりの理由があったようです。

島方取締役は島内でただ一人の権力者であったため、島有財産を自由に処分できる権限を乱用、しかも管轄下になっていた御蔵島に渡って三宅島氏神再建のためと称して大量の黄楊(つげ)を伐採、御蔵島の島民の怒りを買うことがたびたびありました。

そのようなわけで御蔵島から幕府に対して、三宅島からの行政分離の嘆願が幾度も提出されています。嘆願は享保10(1725)年、8代将軍の徳川吉宗の頃にようやく認められますが、それには大奥の絵島事件に連座して御蔵島に配流された医師の奥山交竹院の働きかけによるところが大きかったようです。奥山交竹院が流人の身でありながら、御蔵島三宝神の一人として祭祀されているのはその功績のためなんですね。ともあれ幕府は島方取締役の独裁行為の弊害を阻止するために行政の改革を図ったわけで、従来の独裁的な島政は名主、年寄を加えた合議制へと生まれ変わりました。

ちなみに地役人制度は明治維新後も続きます。明治4(1871)年に伊豆諸島が足柄県に編入されたさいに地役人は「戸長」と改称され、名主は「副戸長」、年寄は「村用掛」という職名に変わりましたが、10年後の明治14(1881)年に再び改正されて旧職名の地役人、名主、年寄に戻されています。

三宅島で204年間も存続した地役人制度が完全に廃止されたのは、島役所がなくなって「大島島庁三宅島出張所」が新たに設置された大正9(1920)年のことでした。さすがに現在は「村長」、「収入役」という職名に変更され、村民総代は「村会議員」という名称になっていますが、それでも名主、年寄という職名は大正12(1923)年に島嶼町村制が施行されるまで続きました。






過酷な年貢制度「塩年貢」は永く島民を苦しめました

三宅島の年貢制度
三宅島は降水量は多いのですが、島全体が火山体なので水が地下に浸透しやすく古来より水田が存在しません。なので島民の食糧事情は貧しく、麦、粟、里芋などが主食でしたが、旱魃や風害に直面すると即飢餓状態に追い込まれ、多くの餓死者を出す惨事が繰り返されてきました。享保年間(1716〜1736)に8代将軍徳川吉宗が救荒食物としてサツマイモの種芋を大島に10個、三宅島と八丈島にそれぞれ5個を交付したことが功を奏し、やがて島内の食糧事情は好転して飢餓の惨事は姿を消していきます。

しかし、三宅島は徳川幕府の直轄地である以上、離島だからといって年貢の義務は免れられません。米がとれないので「塩年貢」という義務が課せられ、山方と海方の2組に分かれて5つの村が昼夜の区別無く年貢のための塩を生産していました。

山方組に属す伊豆、阿古、坪田の3村では昼夜兼行で塩を焚き、海方組の伊ヶ谷、神着の2村が生産品の運搬管理を担当しています。年貢高は3斗5升入のかますで995(現在に換算すると1俵の重量はおよそ57キログラム程度。56715キログラム)俵という膨大な量でしたが、島内の年貢の運搬方法は牛馬の利用もしくは人力で背負うしかなく、道も杣道程度の状態で運搬事情は極めて悪いものでした。

年貢に関する苦難のほどは言語に絶するもので、この頃、本土では年貢の運上を巡って各地で歴史に残る百姓一揆が続出、江戸期だけで3千数百件に及んでいます。そのつど多くの犠牲者の出る流血の惨事を招き、九州や東北から三宅島へと流罪に処せられた者もいました。年貢争議の敗者は常に領民側で、その処置には厳しい極刑が課されましたが、三宅島では年貢運上に関しての争議が発生した事実はないそうです。

三宅島で百姓一揆が発生しなかった理由は簡単。住民感情的には幕府の圧政に対する大きな不満や不平が渦を巻いていたと思われますが、離島という環境であったため島民の力は弱く、争議を起こすこともできず黙々と命に服すしかなかったんですね。

塩年貢の制度は島民にとって過酷な負担でしたが、塩年貢の軽減もしくは廃止を三宅島から幕府に訴願したことによって、元禄3(1690)年に年貢は金納制度に替わっています。レートは「1両につき60俵」。したがって665俵の塩年貢は16両3分の上納金になりましたが、現金収入源を持たない島民にとっては、結果として塩年貢の物納よりもさらに大きな負担を自ら強いられることになってしまいます。

当時の記録によれば島内では金の流通はなく全てが物々交換で行われており、島外にでない限り金を見ないで一生を終える者も多かったらしいです。16両3分もの上納金は三宅島の島民にとって想像もつかない金額でしたが、塩を焚く膨大な薪が不要となったため、薪を江戸に運んで売却して上納金に充当する処置が講じられています。

塩年貢の制度は承応年間(1655〜1658)に始まったといわれ、元禄3(1690)年に金納制度に替わるまでの30余年間を島民は塩年貢で苦しんだことになります。しかし、室町中期の永享3(1431)年に長根集落で運上塩に絡む不祥事件が発生。その後、集落が廃墟となった記録から推察すると、塩年貢の制度はさらに古い時代から行われていたとも思われています。

塩年貢という徳川幕府の特殊な粗税制度については系統的な記録はないものの、「大坂築城に付、天守用塩運上仰付、神着、伊ヶ谷両村運送方、伊豆、阿古、坪田三ヶ村焚立方。」「天正十二甲申年、大坂御城築城に付、御天守御用塩被仰付焚立相納む、伊豆、坪田、阿古の三ヶ村焚立方、神着、伊ヶ谷二村は運送方相勤む。」などの断片的な記録がいくつか残っています。

なお、生産された塩は専売品だったので、生産地の住民といえども自由気ままに使うことは許されませんでした。三宅島の名産「クサヤの干物」は、そのような環境の中で塩を節約することから考案された生活の知恵だったようです。

冷凍設備のない時代、漁獲物を保存する方法としては干物に加工することが最良でしたが、塩を豊富に利用することはできなかったので、樽や瓶に塩水を作って干物をこれに浸してから干しあげました。それを数回繰り返すと塩気は薄くなりますが、多少の増塩をすれば僅かの塩で味が戻り塩の節約になります。いわゆるクサヤですが、クサヤという名称は独特なその臭気から自然に呼びならされたものでしょうが、塩を節約して利用する昔の島民の知恵がクサヤという名産品を誕生させたんですね。

三宅島の島民を苦しめて大きな犠牲を強いた塩年貢ですが、現在では三宅島に伝わる民謡の島唄「わたししゃ三宅のクサヤの干し物 主に焼かれて身をこがす」とともに、クサヤの名称は全国に知られるようになっています。塩年貢によってクサヤという名産品が生まれた事実もあるため、その功罪は相半ばすると評されることもあるそうですよ。

ちなみに三宅島の海岸地帯には「釜」の付く地名がいくつかありますが、それはかつて塩焚場(製塩所)があった名残り。「釜庭(かまにわ)」「釜の尻(かまのしり)」「釜方(かまかた)」などの地名がそうで、その辺りには釜明神、塩の神様と呼ばれる祠があり、釜祖をつとめた者の子孫が現在も祭祀をつとめているらしいです。今の三宅島を訪れても製塩を意識することはまずありませんが、三宅島の歴史を語る時、その昔島民に重くのしかかっていた「塩」の存在を忘れてはいけないんですね。

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