三宅島の歴史について知る
  三宅島の歴史 林道探索の書 〜今日もどこかで林道ざんまい〜 
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亜熱帯植物が茂って野鳥が飛び交う三宅島は火山島

三宅島の地勢
 [1]三宅島の歴史について知る
 [2]徳川幕府の三宅島支配と塩年貢
 [3]三宅島の流人
 [4]三宅島と飢饉
 [5]三宅島と噴火
 [6]ちょっと昔の三宅島
三宅島は東京から南におよそ180km、伊豆諸島のほぼ中央にあたる北緯36度6分から東経139度30分の洋上に孤立する中部伊豆諸島の中心島です。伊豆諸島の中では大島、八丈島に次いで大きくて、島の中央に位置する「雄山(おやま / 775m)」を頂点とした円錐形をした島の面積は55.14平方キロ。東京都世田谷区とほぼ同じ面積で、周囲は約35kmで直径はおよそ9kmあります。

海抜の最高は雄山の775mで、全島を肉眼で見ることができる唯一の島であり、複式活火山「雄山」によって形成された火山の島です。古代の噴火で形成された「太路(たいろ)池」と「新澪(しんみょう)池」という2つの爆裂火口湖のほか、多数の爆裂火口があり、有史以来、たびたび噴火を繰返してきています。

年間の平均気温は17度ないし18度ほど。亜熱帯性気候であるため雪や霜を見ることが稀で、全島のいたるところに亜熱帯植物の繁茂する姿を見られるのが特徴です。三宅島は火山島ではありますが、緑が濃い島であると同時に野鳥の島としても知られ、東京が厳寒の頃でも三宅島ではヤブ椿の花が咲き、花の蜜を求めて飛び交う野鳥の鳴き声は響き渡るのも三宅島ならではの風物詩と言われています。






古来から噴火が多いので「焼島」と呼ばれてきた三宅島

島名の由来は諸説あってはっきりしない
三宅島の島名の由来についてはいくつかの説がありますが、「三島大明神縁起」によれば、家が三つ並んだ姿に似ているところから三宅島と命名されたといわれているそうです。また三宅島は古来から噴火が多いので「焼島」と呼ばれてきましたが、神の造り給う島ゆえに「御焼島」という尊称で呼ばれるようになったとの説もあります。

さらに「続日本記」によると、養老3(719)年に都の貴族であった多治比真人三宅麻呂(たじひのみやけまろ)が、同じ貴族であった穂積朝臣(ほずみのおゆ)と共に、第44代元正(げんしょう)天皇に反抗した罪によって伊豆の島に配流されたとの記述があります。2人の配流先は詳らかではないのですが、三宅島の島名はその三宅麻呂に由来するという伝説もあるそうです。

また一説によれば、三宅島の富賀神社の祭神「伊古奈比v命(いこなひめのみこと)」や「阿米津和気命(あめつわきのみこと)」の神名は「日本後記」をはじめとして「続日本後記」「文徳実録」にも記述されており、当時の朝廷の勢力下にあると認識されていた神社(延喜式内社)が三宅島に12座あったので「宮家島」とも呼ばれたそうで、それが島名になったとも伝えられています。






ココマノコシ遺跡は海に面した断崖の洞穴住居跡

先史時代の三宅島
この時代の三宅島については文字としての記録が存在していないので、当時の詳細を知ることははっきり言って不可能かと・・・。なので、唯一の手がかりである島内の遺跡によっておおまかに分かっていることを述べてみたいと思います。

三宅島では伊豆諸島では最も多い60余ヶ所もの考古遺跡が確認されています。そのうち半数以上は積石塚など時代の下るもので、縄文時代から古墳時代に至る遺跡や遺物出土地はおよそ20ヶ所程度。出土状況としては、縄文以降の遺跡は島の北西部に、弥生以降の比較的新しい遺跡は南側で発見されており、加えて縄文時代の遺跡はすべて島の北側に限られているそうです。

主な遺跡としては縄文時代早期の「坊田沢遺跡」「釜ノ尻遺跡」、中期〜後期の「伊豆灯台下遺跡」「西原遺跡」、後期〜晩期の「友地遺跡」があり、弥生時代の遺跡には中期〜後期の「ココマノコシ遺跡」「ボウタ遺跡」「大里遺跡」「大里東遺跡」が、古墳時代の遺跡には「富賀浜遺跡」「美茂井遺跡」が、平安時代の遺跡としては「坪田墓地遺跡」がそれぞれ発見されています。

これらの遺跡が集中しているのは伊豆、神着、伊ヶ谷の北側と南側にある坪田地区で、西側の阿古地区ではほとんど遺跡が発見されていませんが、それはかつて幾度となく噴火に見舞われた地域だからだそうです。地殻変動などによって遺跡が埋没してしまった可能性が大きいんですね。しかし、阿古地区は事代主命が生活した区域であるとされ、それを祀った富賀神社があることから、本来ならば大量の遺跡が発見されてもおかしくないのですが、それが発見されていないということは、やはり地殻変動によるところが大きいのだと思われます。

このように三宅島では縄文時代から古代までほぼ満遍なく遺跡が発見されており、島内各所にある縄文、弥生時代の遺跡からは土器片が発見されています。そのことからかなり早い段階で三宅島には先住民が生活していたと思われ、また彼らがどこからやって来たかというと、本州から海流に乗って漂着したとするのが妥当らしいです。

そして古代の貝塚や住居跡が海岸周辺に集中していることから、先住民の島での生活の場所は限定されていたと思われ、さらに火山島という島での食糧事情を考えると大量に人口が増えることは考えらないんですね。

弥生時代のココマノコシ遺跡は海に面した断崖中断の洞穴住居跡ですが、かつて学術調査が行われたさいにイノシシやニホンジカ、バンドウイルカ等の獣骨が発見されています。圧倒的に多かったイノシシの骨から、弥生時代の三宅島ではすでに牧畜の存在を推定する説もあるそうです。

島内各所で発見される時代ごとの考古遺跡は、先史時代の昔から三宅島での生活が連綿と続いて現在に至っていることを教えてくれるのですが、逆に言えば発見される遺跡以外にそれを知る手だてはないということです。

過去を教えてくれる遺跡にしても、火山灰地の三宅島ではそもそも遺跡の発見は難しいそうで、縄文時代の遺跡は地表から6〜10m、古墳時代で2mもの深さで埋まっているそうです。しかも場所によって火山灰の堆積の様子がまったく異なるのも発見を困難にする原因で、弥生時代の坪田遺跡や大里遺跡は地表から2mなのに、同じ弥生時代のココマノコシ遺跡ではなんと地表から40mも下に埋まっていたらしいですよ。

ちなみに三宅島の旧家として知られる「壬生家家系書」の冒頭には、「人皇六代、孝安天皇二十己酉年焼出、人皇七代 孝霊天皇之御宇人民住居」と記されています。これは三宅島の出現と住民の誕生を示した記録と思われるのですが、これについては問題外。もしもそれが正しいのならば、それ以前に先住民の住居を実証する縄文遺跡や、出土した土器の類をどう解釈するかのジレンマに陥ってしまいます。

ちなみに、遺跡から発掘された出土品は研究目的で東京都内の某大学に持ち去られ、けしからんことにそのまま今なお返還されていない考古学遺品もあるそうですよ。いわゆる略奪文化財というやつで、島の年配の関係者は泥棒まがいに出土品を持ち去られたことを今でも決して忘れておらず、どの大学かまでも把握していたりします。






三宅島の歴史が明確になるのは鎌倉時代になってから

中世の三宅島
中世以前に開村された島だと「三宅記」には記されている三宅島。この時代になってくると、ようやく歴史の中に三宅島の名が登場してきます。しかし資料は少なく、神話の域を脱しきれないものがある上に曖昧で、これといった定説がないのが実情です。

三宅島に島方取締役が設置されたのは飛鳥時代の天武7(679)年で、神主がこれを兼行して行政の執行にあたってきましたが、島の歴史が明確になってくるのは鎌倉時代以降のこと。建久3(1192)年に源頼朝が征夷大将軍に任ぜられて、鎌倉に幕府を創設すると、三宅島はその支配下に入って相模の国に属しています。以来北条、狩野、朝比奈氏の支配下に置かれてきました。

その後、室町期には関東管領上杉氏の支配下に置かれ、応永3(1396)年7月23日付の「室町幕府管領斯波義将施行状」には、幕府が下した前年7月24日の安堵にしたがい、関東管領上杉朝宗(うえすぎともむね)に伊豆国仁科庄、河津庄、三津庄などとともに、大嶋、新嶋、外嶋、神津嶋、三宅嶋、八丈嶋を支配するよう命じていることが記されています。(上杉家文書)

時代は下って永正9(1512)年、伊豆諸島は小田原北条氏に制圧されていますが、その支配は天正18(1590)年の北条氏滅亡の年まで続きます。このように三宅島を含む伊豆諸島は相模国に属し、鎌倉幕府の天領であり、室町時代には関東管領の支配下に、戦国時代にはだいたい北条氏の傘下に置かれていましたが、これといった特産物のない離島を支配していた理由は外敵の侵入に対する備えだったそうです。

しかし、これらの支配者が、飢餓と疫病の蔓延に苛まれた直轄地である三宅島に対して救済を施したことは全くありませんでした。特に戦国時代では戦乱に明け暮れて、大名にとっては天領であっても海の彼方の離島にまで手を差しのべる余裕はなく、そのため島民の生活環境は苦難の連続でした。

なお、宗教面では中世の後期には三宅島への仏教流入が顕著だったらしく、伊豆地区の日蓮宗善陽寺は応永9(1402)年、伊ヶ谷地区の浄土宗大森寺は応永22(1415)年の創建と伝えられています。さらに伊豆の御祭(ごさい)神社に奉納されている木造楽面の裏面には「文明八丙申(1476)」「旦那忠吉」と刻銘がありますが、この楽面は地方神社伝存のものとしては制作年代も古くて作風も堅実。現在でも神事に使用されており、そこで歌われる神楽歌は平安期の古式にのっとったものと推定されています。






江戸時代の島政を司った地役人の役宅「島役所」

江戸時代の三宅島
慶長8(1603)年に徳川家康が江戸に幕府を開設すると三宅島は幕府直轄地とされています。その後、慶長18(1613)年に中川九右衛門が伊豆韮山代官に就任した時から島は代官の支配下に置かれて、代官の手代が配置されて島政を執行しますが、徳川吉宗が8代将軍になって享保元年(1716)に享保の改革が実施されると代官手代の制度は廃止されました。新たに地役人制度が設けられ、島務は地役人に委ねられ、各村に名主制度をしいて村務を執行させています。

江戸時代の三宅島の島政は制度、名称に若干の変更はありましたが、おおむね地役人を頂点とし、その下に名主、年寄の村役を置く体制で島民を支配しています。江戸時代の三宅島は伊ヶ谷、神着、伊豆、坪田、阿古の5ヶ村に分かれており、有力家系は神着に居住する神官の「壬生(みぶ)氏」と伊ヶ谷に居を構える「笹本氏」で、壬生氏の役宅は島役所、笹本氏の役宅は陣所とよばれていました。

壬生氏と笹本氏の間には島内主導権争いも発生しています。天保6(1835)年7月、笹本氏の新兵衛船が無人船を見つけてその積荷を抜き取ったことから、笹本氏が密輸しているとの噂が立ち、天保8(1837)年、5ヶ村中4ヶ村の村役人が連名で笹本氏の不正を伊豆韮山代官羽倉外記に訴えます。すると同じ頃、流人の放火による伊ヶ谷村全焼事件が発生。翌年の天保9(1838)年に今度は神官の壬生甲斐正が笹本氏の非違を訴えるという事態が勃発しています。

結果、笹本氏は地役人の地位を追われることになり、一時的に新島の地役人前田筑後と神津島の地時役人松江伊予の2人が三宅島の地役人を兼務しましたが、まもなく神官の壬生氏が地役人兼帯となり、三宅島の祭政両界を掌握するようになっています。

江戸時代の三宅島の年貢は当初大島などと同様に塩年貢でした。995俵(1俵3斗5升入り)を納め、これに対して幕府から扶持方米125俵が下されています。塩年貢を納めていた時代、貢船である御用船や漁船を所持する神着村、伊ヶ谷村は浦方(海方)とよばれ、漁猟および塩ほかの産物の運送を生業としています。

一方、伊豆、阿古、坪田の3ヶ村は釜方(山方)とよばれ、塩を作り、また塩焼の燃料となる薪取りなどに従事していたようです。元禄2(1689)年に年貢が塩の現物納から金代納に変わるまでその状態が続いています。

それまでの塩年貢が銭納化されると、三宅島では島の産物として「三宅支庁文書」に記録されている黄楊(つげ)、縞木綿、かつお節、天草、薪、塩、干魚などを江戸の島問屋へ売るようになりました。島問屋は買い入れた島の物産と交換に、島民の必需品を渡し、また必要に応じて金も貸し出しています。こうした取引は伊豆諸島の物産を島問屋の支配下に置くことになって島側は取引の自由を失いましたが、島会所が設立された後は取引は島会所が一手に取り扱っています。

徳川幕府によって創設されたこれらの諸制度は、途中で多少の改廃はありましたが、明治維新に至るまでのおよそ260余年の間存続されました。






三宅村成立以来、幾度となく移転が続く三宅村役場

近世・現代の三宅島
明治2(1869)年6月、三宅島はそれまでの徳川幕府の支配から伊豆諸島の韮山県所管に移り、明治4(1871)年11月の足柄県、明治9(1876)年4月の静岡県編入を経て、明治11(1878)年11月に郡区町村編制法によって東京府に編入されます。その後の大正12(1923)年10月には島嶼町村制の施行によって「大島島庁」の管下に置かれますが、大正15(1926)年の島庁廃止に伴い「大島支庁」の管轄下になっています。さらに昭和18(1943)年4月1日に東京都制が実施され、大島支庁三宅島出張所は廃止。新たに設置された「三宅支庁」の所管となっています。そして6ヶ月後の昭和18(1943)年7月1日にようやく三宅島は東京都に所属するようになりました。

流刑制度は明治7(1874)年に廃止されていますが、その後も三宅島には17人が在島しており、最後の流人が赦免されたのは明治17(1884)年のことでした。

第二次世界大戦中の三宅島には昭和19(1944)年に本土防衛のため陸軍約1500名が島に駐屯しています。翌昭和20(1945)年には強制疎開の指令が出されていますが、疎開船「萩丸」が撃沈され、終戦間際には硫黄島から出撃したアメリカ空軍の戦闘機、爆撃機の空襲を数回受けています。

戦後の昭和21(1946)年10月1日に伊ヶ谷、伊豆、神着の3村が合併して「三宅村」が成立。さらに三宅村と阿古村、坪田村が対等合併して今日の村域を持つ三宅村が成立しました。三宅支庁の庁舎は旧来から島役所のあった神着地区に設置されて島の官庁は神着に集中しましたが、村役場は場所が定まらず移動庁舎方式がしばらく続いたようで、伊豆→阿古→坪田→神着→坪田と移動して昭和35(1960)年10月になってようやく坪田地区に現在の場所に村役場庁舎が建設されています。島外からの交通の要衝は坪田であり、行政のバランスを考慮して坪田になったらしいですよ。

島内のインフラが整備されたのは昭和に入ってからのことで、昭和4(1929)年に三宅島電気会社が設立されて初めて三宅島に電気が灯りました。昭和6(1931)年には三宅島島内電話が開通しています。昭和33(1958)年に「伊ヶ谷簡易水道」が敷設されて電気も24時間送電となっていますが、島内全域を水道がカバーするようになったのは昭和43(1968)年のことでした。三宅島に初めてラジオが入ったのは大正15(1925)年で、テレビは昭和30(1955)年だったそうです。

参考までに三宅島の流人を除く江戸時代の人口は安永3(1774)年は1596人、弘化3(1846)年では2324人。江戸時代が終わって明治11(1878)年の東京府移管時には2908人まで増えていますが、平成19(2007)年には2900人だったのが平成29(2017)年には2583人まで減少しています。

離島ブームで昭和40(1965)年代には一時人口は増加しますが、基本的には三宅島の人口は減少、老齢化の傾向にあるようです。理由としては日本経済の高度成長期に島民の島外流出が激増してしまったこともあげられますが、度重なる雄山の噴火活動によるところが最も大きいと思います。

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