三宅島の流人たち
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明治時代まで1000年間以上も続いた三宅島への流刑

流刑の特徴と流刑地としての三宅島
 [1]三宅島の歴史について知る
 [2]徳川幕府の三宅島支配と塩年貢
 [3]三宅島の流人
 [4]三宅島と飢饉
 [5]三宅島と噴火
 [6]ちょっと昔の三宅島
三宅島への流刑の歴史は古く、奈良時代の719(養老3)年に謀反に連座した罪で三宅島に流された多治比真人三宅麻呂(たじひのましとみやけまろ)が流人の第1号で、最後に三宅島への流罪が行われたのは1870(明治3)年のこと。およそ1100年間にもわたって行われた三宅島への流刑ですが、三宅島の流刑史の中で最も多く流人が配流されたのは徳川幕府の江戸期でした。

江戸時代の流刑制度には3つの特徴がありますが、その第1は「刑期がないこと」でした。つまり流刑は終身刑を意味し、いったん流刑になると、将軍家や幕府に慶事や仏事でもない限り赦されることは稀でした。

第2の特徴は「配流地では自ら食を求めなければいけなかった」こと。幕府の配流者に対する考え方は「勝手に生きてゆけ」であり、食糧事情の厳しい離島で食を自ら求めるということは非常に困難であり、流刑が生地獄と恐れられたのはこのためです。

第3は同じ流刑でも佐渡島の流人は犯罪者ではなくて、強制労働に就労した人たちであるのに対し、伊豆諸島の「流人は幕府の掟に触れた犯罪者であったこと」です。佐渡島の流人は過酷な強制労働に従事させられても最低限の食糧の給与がありましたが、伊豆諸島の流人は犯罪者なのでそれがありませんでした。佐渡島のように強制労働を課せられず自由気ままな生活ができた一方で、食糧の確保が大問題でした。

三宅島への流人については延宝元禄流人帳(浅沼家文書)、三宅島流人帳(2冊、東京都公文書館蔵)などが残されており、記録上の流人数は約2300人ほどですが、48年間の記録が欠けているので実数は不明なのが実情です。

江戸時代後半期には流人の数は島民人口の1割を越えており、天保14(1844)年5月には三宅島から「流人御赦免願書」が伊豆韮山代官に出されています。島民と流人の混在による秩序不安や、流人扶養の困難を理由に、流人の御赦免を増やすようにと訴えでしたが、これはある程度聞き届けられました。元来生産力の低い離島に多数の流人を押しつけられ、島社会はすべての面で破綻をきたしていたんですね。

しかし、流人と言えば有名なのはやはり八丈島でしょう。三宅島は同じ伊豆諸島の流刑地であっても八丈島と比べて江戸からの距離も近く、また、八丈島、御蔵島、神津島への流人は幕府の御用船でいったん三宅島へ送られてから三宅島の船で各島に護送されていたので、八丈島と比べて流人の島のイメージは薄いかもしれません。






遠島を申し付けられたのは死罪に次ぐ罪状の者でした

どのような罪が遠島になったか
徳川幕府の刑法典「公事方御定書」による流罪は「遠島」と呼ばれ、33種類の罪が定められていました。主なものは以下の通りです。

江戸十里四方ならびに御留場と呼ばれた御鷹狩場内など許可のない場所で鉄砲を持っている隠鉄砲、難風に遭ったさいの船荷の盗み取り、幼女への不義(強姦致傷)、寺持僧の女犯、不受不施僧、改宗に応じなかったり信者への宿の提供を含む隠れ切支丹、の博突打(三笠附、取退無尽、手目博突、金子合力と称する類)、人殺し(殺す旨の脅迫、短慮な妻子殺し、出来心の人殺し、指図を受けた、毒殺未遂)、親・近親・主人などへの救助義務過怠、大怪我を与えた者(喧嘩あるいは渡し船の船頭の過失による溺死事故、大八車による引っかけ事故で渡世成り難いほどの障害を与えたなど)、弓鉄砲による過失致死、15歳未満の幼年者の人殺し、放火・・・。

まあ、遠投に処せられる罪は色々ありますが、人殺しや10両以上の盗みが死罪だったところから、遠島は死罪に次ぐ者である事が分かります。ただし、幼年者や盲人、乱心者、正当防衛に突いては若干の配慮がなされたようです。






重大事犯は死罪で処刑、軽微な場合は島の牢屋で対処

流人の管理体制
三宅島に到着した流人は、事実上の島主や島役人を兼ねた家柄の神官と年寄り、御船預かり役が中心的役割を果たして流人の村割りから監督、警備の仕置きまで掌握していました。流人御用船が沖に現れると、浦方人足総出で船を出迎えて流人を下船させ、流人証文と身柄をそろえて島役人に引き渡されます。

御用船の船内で縄を解かれて下船した流人は、長い在牢と船旅で大部分が疲れきって焦燥状態になっており、このため下船後しばらくは海岸の玉砂利の上に座らされたともいいます。実際、三宅島では下船後に死亡しった者が100名を超えています。しかも三宅島では着岸の浜から急坂を2キロも登った崖上の伊ヶ谷村にあった島役所に連れて行かれ、役所の土間に正座して請取証文との照合を受けることになっていました。

流人の受取りには島内各村の住民が各自の草履の表面に自分の名前を書いて並べ、流人は並べてある草履の一つを履いて島役所に行き、草履に記入されていた住民を保護者として百姓家に預けられたなどの話はよく知られていますが、この草履くじは後世の創作と考えられており、流人の扱いとして疑わしいそうです。

また、流人はすでに国元で犯罪を犯して送られて来た受刑者なので、さらに身柄を拘束して罰する牢屋の設備は不要であり、三宅島そのものが牢屋だという認識だったそうです。しかし、「重ね犯」と呼ばれた島内での流人の悪行、犯罪については、島抜けや殺傷、騒動、犯行といった悪質な重大事犯は「下知仕置き」と呼ぶ死罪か島替えで、軽罪には名主による眉削や叱りといった「島仕置」で対処し、三宅島からより不自由な御蔵島へ身柄を移す追放刑の「島替」がありました。

基本的には流人の身柄を拘束する牢や戒具は不要でしたが、伊ヶ谷村の大船渡湾に近い海岸の崖ふちの刑場に隣接した公儀の「島牢」と、明和2(1785)年に建設された小屋もしくは小屋預けと呼ばれた「村牢」があったそうです。

島牢は男女別に区割りされた堅固なもので、在牢者がある場合のみ伊ヶ谷村の百姓が日当手当つきの当番で見張っていたといいます。食事は一日に雑穀の握り飯一つと水だけなので、ひもじさに耐えかねてうめく者や泣く者、ひぃひぃと悲鳴をたてる者などがいたそうです。あまりの酷さに番人も番小屋に居たたまれずに崖を登ってその上から見張ったため、明治の頃まではその崖を「見張崖」と呼んでいましたが、島牢のあった場所は古老の話によれば「生島新五郎の墓」の右手付近一帯だったとか。

流人の老人が空腹に耐えられず、民家の軒先の干し芋を盗んで食べて「眉削」、さらに女性をからかった科で「頭削」の上で入牢というトリプルな村仕置きを受けた事があったそうですが、この髪と眉を剃った上で入牢という仕置きは三宅島以外には見当たらないものでした。しかし、これはまだ軽い罪だった場合の話。

伊ヶ谷村の「伊ヶ谷刑場」では流人の処刑が行われましたが、流人が最も恐れたのは「天狗」や「自滅」といわれた私刑でした。特に横暴で手に負えない者は正規の仕置きを待たずに島民たちによって海中に投じられたり、懲らしめで括られて半死のまま砂の上に放置、仕置きを受けても改悛の望めない者に対しては「自滅申付」で餓死に至らしめる事もあったみたいです。

三宅島での流人による各種事犯の発生状況は、飢饉などの事情から化政期(1804〜30)および天保年間(1831〜1845)に増加し、万延元年(1860)の伴作騒動では34人もの流人が集団島抜けを計画、暴動寸前にまでなっています。






自給自足が建前だった流人小屋での生活

流人の生活
三宅島に流人が到着すると島内それぞれの村に割当てられましたが、身分や財力によって「家持流人」と「小屋流人」とに区別されました。身分のある武士や公家、裕福な親類縁者のある流人などは国元から差入れがあり、島民の家を借りたり、同居して気ままに生活できた家持流人も僅かながらいましたが、ほとんどは掘立小屋や草葺きの小屋に住む食うや食わずでその日暮らしの小屋流人でした。

流人の生活はあくまで独身、自活が前提でした。大工や左官、石工などの仕事もありましたが、手に職のない者は島の漁労や農業を手伝うことで分けてもらう僅かな食糧で生きていくしか方法がありませんでした。医師や僧侶、学問のある者は島民の教化や指導によって生活できましたが、それは例外的な一握りの著名な流人に過ぎません。

流人には妻子同伴は認められず、また島内で世帯持ちになることも認められませんでした。しかしそれは正式な建前で、水汲女という名目で現地妻が黙認されていましたが、三宅島では元分3(1774)年にこれを禁じる処置をとっています。赦免時に妻と子どもを島に残し去る弊害や、情愛から水汲女が島抜けの計画に便宜を図ることを防ぐ目的があったからとされています。

また、それ以外にも島抜けの禁止や、内緒便の禁止といって廻船の船頭に賄賂を使って島外にて手紙を送ることの規制などがありました。通常時の日常生活は自由気ままであっても、それは決して放任という意味ではなくて、配流先での規律統制を維持するためにいくつかの法度事項が決められていたのはいうまでもありません。

しかし、幕末の三宅島では飢饉のない時でさえ「お返し申す」とか「臼ころがし」という産児制限があったように、ひとたび飢饉や疫病が流行して島が食糧不足に陥ると流人の生活は悲惨なものになっています。海藻や山芋、アシタバ、シダや木の根まで食べ尽くして生き延びようとしますが、餓死した者も多くいたそうです。著名な流人については人物史やエピソード的に興味をかき立てるごとく語られていますが、大部分を占める無名な流人たちは、実際かなり悲惨な状態にあったというのが実情ですね。

狭い島内が飢饉や疫病に見舞われると厄介者扱いで悲惨な状況に置かれる流人たちでしたが、三宅島では流人に対する島民の優しい配慮もありました。「施餓鬼」と称して年に何度か季節の作物を収穫した後、最後の一日を流人に開放して落穂を拾わせたり、残り芋を掘らせたりもしています。

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