ちょっと昔の三宅島
  三宅島の歴史 林道探索の書 〜今日もどこかで林道ざんまい〜 
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昔の三宅島美人が色白だったのは作業着姿がその理由

女性の頭上運搬
 [1]三宅島の歴史について知る
 [2]徳川幕府の三宅島支配と塩年貢
 [3]三宅島の流人
 [4]三宅島と飢饉
 [5]三宅島と噴火
 [6]ちょっと昔の三宅島
伊豆諸島は火山島なので古来から水に乏しく、三宅島の女性は大きな水桶を頭に乗せて水を運ぶのが日課の一つでした。三宅島に限らずこの運搬方法は女性だけに限られるもので、このため島の女性は足が太くて首が短いのが特徴だといわれました。

頭上運搬は毎日の水汲みはもちろん、サトイモや甘薯を煮るための潮汲みにも利用されました。水の入った桶はかなり重くて重労働でしたが、島の女性が桶を頭上に乗せて運搬する姿は島の風物詩であり、嫁入り道具の中には水桶も含まれていたそうです。

作業には盲縞(めくらじま)と呼ばれる木綿の着物もしくは絣(かすり)を着るのが普通でした。また、汚れと着物の前が肌けるのを防ぐため前垂れは女性の必需品で、必ず身につけていたそうです。頭にはかぶりものと呼ばれる白い木綿の布をかぶってあごで結びましたが、これは髪の乱れを防ぐとともに日除けや防寒の役割がありました。

日差しの強さにもかかわらず昔の三宅島の女性の顔が色白できれいだったのは、日除けでかぶりものをしていたためなんですね。しかし、島の女性は頭上に桶をせて毎日運ぶため、おしゃれで日本髪をゆえるような生活環境ではなかったそうです。

しかし、やがて三宅島にも簡易水道が完成すると、毎日の苦しい水汲み作業は必要なくなりました。それと同時に女性の頭上運搬も三宅島から姿を消して、白い布をかぶって前垂れをかけた女性の労働姿も現在は遠い過去の風習になっています。






昔の三宅島には特殊な婚姻の風習がありました

三宅島の足入れ婚
昔の三宅島の婚姻には一般的な婚姻とは別に「足入れ婚」というものがありました。いわゆる仮祝言で、婚約の儀式ともいえるものですが、なんらかの事情や都合で結婚式を挙げることができない時に、やがて正式な結婚式を挙げることを前提で行われました。しかし、実際のところは、その根底には婿の両親と同じ家屋での同居を避けようとする「隠居三居」の考えがあるみたいです。

足入れ婚は普通は婿方で行われ、仲人、嫁、両親、兄弟のごく内輪の者が数人出席して盃を交わすだけで終わります。杯が終わると嫁は実家に帰りますが、足入れ婚がすめば実質的には夫婦であり、数ヶ月あるいは数年後の正式な結婚式では、臨月の花嫁や赤ん坊を抱いた花嫁姿も珍しくなかったといいます。

また、三宅島では島の中でも、同じ地域のものが結婚する村内婚が多かったそうで、足入れ婚も村内婚を基盤としたものでした。時代を遡るほど村内婚の傾向は濃くて、その結果、狭い村内全体が親戚関係のつながりを持つことになりましたが、戦後、本土との交流が盛んになると、やがて島外婚が一般的になってきます。

仲人についても珍しい風習があって、三宅島では婿方、嫁方それぞれで1名の男性に仲人役を依頼するのが一般的でした。しかし、さらに珍しいのは神着地域でみられた「家付仲人」という風習。これはA家で婚礼がある場合に仲人を務めるのは必ずB家の当主といった具合で、個々の家ごとに先祖代々決まった仲人が存在するというものでした。






長男が結婚すると両親は別の家を構える隠居三居制度

隠居三居の制度
いつ始まったのかは定かではないですが、三宅島には古くから隠居三居という制度がありました。隠居とは親が子に家督を譲ること。社会通念として隠居する時期は相続人が成人妻帯して次の世代の家長として相応しい風格を備えたときに行われるのが普通で、三宅島でもそれは同じですが、その後の状態に大きな相違点がありました。

その家の長男が妻帯すると、その両親は他の家族を引き連れて別の家に移って一家を構えます。そして長男も親もそれぞれ一家の主人となり、親は隠居の身でありながら別家で戸主として引き続き今まで通り幅広い生活権を有しながら働きます。

さらに次男が妻帯すると再び別家を繰り返し、長男も次男も戸籍上では一家ですが、それぞれが家屋敷を持ち、それぞれが一軒前として扱われました。これが三宅島で隠居三居といわれる制度ですが、近年は長男、次男たる若者が島外の都会に出ていって、この制度もすっかり薄れています。

家屋敷や金銭に余裕があろうとなかろうと、隠居三居の制度は行われましたが、なぜ新婚の夫婦ををわざわざ独立したい別の家屋に住まわせるのかというと、ざっくり簡単に言えば、結婚すると嫁は早く婿の家に移りたいのですが、婿の家で両親がまだ頑張っていた場合、嫁は自分の生家で毎夜婿を迎えることになるので、これでは相当な気まずさや無理が生じることになりますね。というわけで親子2世代の夫婦が同居を避けようとする意識が基礎になって行われてきた習慣らしいです。

したがって隠居三居と言う制度には、2世代が同居するには家の大きさが小さいとか大きいといった経済的なことは問題ではなかったみたいです。






寝宿は共同生活で仮親から初世の術や教養を学ぶ場

寝宿と夜這い
三宅島には昭和の初期の頃まで行われていた寝宿(ねやど)という習慣がありました。子供が15、6歳くらいになると自分の家で寝ることはせず、男女とも地域内の旧家や有力者の家に寝泊りするもので、泊まり先の主人は仮親となって、子供が成年になって所帯を持つまで責任を持って預かるものでした。

泊まり先を寝宿、世話になる子供を寝宿子(ねやどっこ)と呼びましたが、昼間は自分の家の家業をして夕食を済ませるとそれぞれの寝宿に集まります。遊びで集まる溜まり場ではないので好き勝手な態度や行動は許されませんでしたが、島外に出る機会の少なかった昔は、仮親からの指導や様々な処世の術、教養を学ぶ場だったみたいです。男女は別で、男女ごとに寝宿子のグループを作り、仮親も別になっていました。

寝宿の生活は厳しい一面もありましたが、男女交際の場でもあったようです。ふつう仮親は寝宿子よりも早く寝ますが、これは若者を夜這いという遊びに誘い出させる無言の思いやりでした。夜這いという若者の遊びは全国的にあった習慣で、なにかとんでもなく淫らな行為を連想しますが、実際にはそうでもなくて、若い男子の女子に対するほほえましい挑発行為だったらしいです。

もちろん夜這いにくり出すのは男子だけ。女子は寝宿で裁縫などをして過ごしました。また、若い男子はわざわざ東京から買った麻を寝宿で青く色染めして、籠縄を作って好きな娘にプレゼントしたりしていたそうです。

しかし、夜這いでは時として突発的な事態が発生しないとも限らないので、適齢期の娘を持つ親は夜の戸締りを厳重にしました。そして家の入口近くに家族が寝て、女子は奥に寝させたそうです。夜這いが若者の遊びであることが暗黙で了解されていても、実際に忍び込んだところを見つかったら大変なので、夜這いをかける方も娘を守る方も互いに戦略を尽くし、激しい夜間の攻防が果てしなく続いたんですね。

現在の三宅島ではたぶんもう廃れてしまった寝宿と夜這いの習慣ですが、寝宿については三重県鳥羽市答志島に現存する「寝屋子制度」が無形民俗文化財に指定されていることで知られていますね。さすがに夜這いは答志島でも廃れていると思いますが・・・。






特定の状態や日柄を忌み避けた習慣

忌小屋
特定の状態や日柄などを平常の生活から切り離して忌み避ける風習として、昔の三宅島では忌の習慣というものがありました。忌(いみ)の習慣には女性の血の穢れと死の穢れがあって、血の穢れについては出産と生理があります。女性が生理の期間や出産のおりに家族と別居生活をするための小屋、または死者が出た場合にその家族と親類縁者が喪明けまで共同生活をしましたが、そのさいに籠る小屋が忌小屋です。地域ごとに村から離れた場所に数軒ずつありました。

女性が生理や出産のおりに数日間、あるいは数十日間寝起きする小屋を三宅島では「カド」「カドヤ」「カドヤシキ」などと呼び、出産小屋を別に建てた場合は「コモチノカド」と呼びました。カドとは「ヨゴレ」の意味だそうです。

ちなみに伊豆諸島で少女の初潮を祝う習慣は黒潮以南と三宅島だけで行われたと言われていますが、三宅島では初潮の娘がカドに入ると、葉を取った竹に色紙の吹き流しと贈り主の名を書いた札をつけた「七本柳」というものを贈りました。それをカドヤの前に立てて、その数が多いほど誇りだったそうです。出産については自宅で出産して2、3日経ってからカドに籠もりましたが、その期間は三宅島では15日間ほどでした。

また、カドに籠もって喪に服する期間は子の場合は50日、嫡孫は15日、兄弟は7日で、嫁は家庭の留守番で小屋に入りませんでした。期間中は髪も刈らず、髭剃りもダメで自宅に帰ることもできません。喪に服する小屋は「タビ」とも呼ばれましたが、これは火を別にするという他火という意味。そしてお悔やみの客は「カド見舞」といって線香ではなくてお米を1升持参するのがしきたりでした。

三宅島でこのような忌の習慣がいつの頃から始まったのかは定かではないですが、血や死を忌む思想から発生したこの風習については弊害も多くあり、江戸時代には幕府からたびたび禁止令が出されていますが、根強く残り続けました。しかし、少女や女性が籠る小屋に男たちが忍び込んで未婚の女性が身籠ったり、闇子(やんご)と呼ばれた私生児が闇から闇へと葬られるなど、風紀上の問題が表面化して明治9(1876)年に廃止されています。なお、カド見舞という言葉は昭和の時代になっても使われていました。






三宅島消防団、青年団のルーツは五人組

五人組(若者組合)
五人組とは戦国時代に自然発生した自衛組織のことで、この制度が全国的に広まったのは江戸時代の頃。始めの頃は浪人の取締りなどの治安警察的な機能を主としていましたが、やがて領主が年貢の確保に制度を利用する一方で、民間側においては社会的な相互扶助の機能を有するようになってきます。

三宅島に五人組が普及したのは文政年間(1818〜1831)の頃。江戸時代、年を追うごとに配流者の数が増えて流人が引き起こす様々な事件も増加しましたが、流人の不祥事や事件は島民が責任を負わされるので、島民は常に流人に対する警戒心をいだき、そのような状況下で若者が結集して自警団的な組織としてつくられたのが三宅島の若者組合なんですね。火災防止や流人の監視、風紀の取締りなどの活動をしました。

年1回、正月の総会で決められた事項を忠実に守るだけで、五人組の制度にはとくに規約などはなかったそうですが、「小若組」→「中若組」→「大若組」の3段階があり、力量のない者は年齢に関係なく低いステージに止まらなければいけない厳しさがありました。なので、島の若者たちは寸暇を惜しんで自己の鍛錬に励んだそうです。

小若組・・・16歳になると強制参加。役目は常に下働きで使い走りや雑役を務め、寄合では土間から上にあがることが許されず、服装は四季を通じて下着は禁止で単衣物(ひとえもの)が原則。正月の総会で成績優秀者は抽選で中若者にランクアップ。

中若者・・・16〜25歳まで。すべての行事は中若者が中心となって行われ、服装は単衣物の下に下着を一枚切ることが許される。

大若者・・・26〜36歳まで。36歳になると自然解職になったが、入る者による事件が多発して党内が騒然としたため、1860(万延元年)年に40歳までに延長される。

若者組合には幹部として組頭、副組頭、世話役、働頭などの役職があり、中若者一同の選挙で選ばれました。組頭を務めた者は解職後に若者組合の顧問である浜役に選ばれるのが通例だったそうです。後に若者組合は若者組合→非常組→消防組と改称されていきますが、消防組は現在の三宅島の消防団および青年団の前身ですよ。






昔は定期的に三宅島へやって来た行商人

島を訪れる者
現在は三宅島にも普通にスーパーや商店があるので、行商人が島を定期的に訪れることはなくなっていますが、昔は背負い売り(しょいうり)や行商人が島を定期的に訪れていたそうです。富山の薬売りや山梨県や京都からやってくる反物・着物・布団売り、呉服・洋服売りなどがそうでした。

また、現在はネットの普及で家にいながら動画や音楽、映画なども楽しめますが、そういうものがなかった昔は、娯楽としては東京浅草から浪花節語りや祭文(さいもん)読みなどが年に1回、明治の末まで巡業していたといいます。変わったところでは、なんと乞食僧(坊主)が本土からやってきたこともありました。






昔は塩代わりの調味料として海水をそのまま利用

昔の食生活
伊豆諸島で八丈島だけが唯一米が収穫されましたが、三宅島では米が穫れなかったため主食料はムギ、アワ、カブ、サトイモ、サツマイモで、そのうち最も重要だったのは甘薯でしたが、島ではたびたび飢饉が発生したため、その備蓄用食糧として、ヘンゴ、トコロ、イラネ(百合)、イグマ、カシュウの根茎などが食べられ、飢饉の際にはヤマイモ、ネイモなどが救荒食料でした。

主食の次に調味料ですが、調味料として最も重要なものは塩であり、三宅島では江戸時代に塩を年貢として納めていたことから自家用に製塩する者もいたそうですが、これは長続きしませんでした。従って三宅島では塩の代わりにウシオとかウショと呼ばれる海水をそのまま調味料として利用していました。

毎日の食事に欠かせない味噌や醤油も三宅島では作られませんでした。その代わりに魚をたたいて塩を入れて魚醤を作って貯蔵し、その上澄の汁を醤油の代わりとし、下層に沈殿して凝集したものを味噌としました。

甘味料については、三宅島ではサツマイモを常食にしていたので料理に砂糖は使わず、揚げ物や炒り物にはツバキの実を絞った椿油が食用油とされました。

昔の三宅島では食事ごとにお米のご飯を食べたのは男だけでしたが、しかしそれでも1杯だけに限られていました。それ以外の主食には家族の女性や子供と同じようにサトイモやサツマイモを食べましたが、やがて時代が降るにつれて家族一同が雑炊やお米のご飯を食べるようになります。

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