阿古
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三宅村 阿古

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島の南西に位置して東は「坪田」に隣接する三宅島で最も栄えて人口が多い集落です。東海汽船の貨客船が発着する「錆ヶ浜港」のある島の玄関口で、かつては阿古温泉郷と呼ばれ観光の中心地でしたが、1983(昭和58)年の噴火で流出した溶岩流が集落を襲い、集落の7割が焼失して埋没する被害を受けています。

現在、三宅島で生産される果物はパッションフルーツしかないですが、明治の終わり頃には阿古村の人たちが中心となって研究、計画された果樹園が造成されています。リンゴ、梨、柿、栗、ビワ、桃、夏ミカン、温州ミカン、ブドウ、ネーブル、オレンジといった多彩な果樹が栽培されましたが、もはや当時の果樹園を知る古老もいません。

集落の南東方、島の最南部には1763(宝暦13)年の噴火で形成された周囲約1km、深さ50mの爆裂火口湖の「新澪(しんみょう)池」がありましたが、1983(昭和58)年の噴火で溶岩が流入してマグマ水蒸気爆発が発生して池の水が無くなっています。


三宅島で最も人口くて定期船が発着する錆ヶ浜集落

集落の南方、島の南西端にある富賀(とが)山には、伊豆諸島の開拓神とされる事代主命とその后神の伊古名比v命、およびその御子神阿米都和気命の三神を祭神とする三宅島の総鎮守「富賀神社」があります。富賀神社は延喜式神名帳に記載された伊豆国加茂郡の「阿米都気命(アメツケノ)神社」(阿米都和気命神社)とされており、「文徳実録」によれば、850(嘉祥3)年6月4日に他の伊豆諸島の神々と共に従五位下の神階を贈られ、852(仁寿2)年12月15日には従五位上を追贈されているそうです。


ひっそりとした錆ヶ浜のメインストリート

なお、明治の末に書かれた文書によると、今の阿古集落は昔から同じ場所にあったのではなくて、噴火によって過去に何度も移住を繰り返してきたそうです。かつての阿古集落は新澪池の東方800mにある「東山」付近にあったそうですが、1469(応仁3)年の噴火によって一時的に伊豆村に移住した後、現在の地に移っています。

その後、1643(寛永20)年の噴火による溶岩流で集落が覆われたため、再び東山に戻っていますが、1712(正徳元年)年の噴火で東山にあった阿古集落で泥水に家屋が埋没したため、またしても一時避難を余儀なくされています。

さらに1763(宝暦13)年の噴火では神着村や伊豆村の「別当原」に避難しますが、噴火が1769(明和6)年まで収束しなかったため、東山の地を放棄して現在の地に移住したそうです。しかし、その場所も安住の地ではなくて、1983(昭和58)年噴火で集落は再び溶岩流に襲われて阿古地区の「岡堀」「二島」「釜根」などに移転しています。

過去の避難移住の記録の中には真偽が疑わしい記録もあるそうですが、いずれにしても噴火のたびに現在の阿古地区と、新澪池東方にある東山地区との間を何度も移り住まなければならなかった苦労があったということですね。

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