三宅村 神着 |
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島の北部に位置して北側は海に面し、南は坪田、西は伊豆に接する集落です。神着には神官兼地役人を勤めていた壬生氏の屋敷があって三宅島の中心的役割を果たしてきました。伊豆国附島々様子大概帳によれば1774(安永3)年の戸数は64軒480人で、人口は当時の島内で最大でした。「三宅記」によると、伊豆諸島の開拓神とされる事代主命が三宅島に上陸した土地で、これが神着の地名由来と伝えられています。
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伊豆諸島の開拓神が上陸したというのが地名の由来 |
集落の中央には御笏(おしゃく)神社があります。佐伎多麻比v命などを祀る御笏神社を延喜式神名帳に記載された伊豆国賀茂郡の「佐伎多麻比v(サキタマヒメノ)命神社」だとする説があり、かつては1874(明治7)年の噴火で埋没した東郷地区に鎮座していたそうです。 現在、本殿に合祀される峯指(ほうす)神社(古くは風早山に鎮座)を神名帳にみえる加茂郡の「波夜志(ハヤシノ)命神社」に、同じく二宮神社(古くは東郷に鎮座)を同郡「加弥(カミノ)命神社」にあてる説もあるとのこと。また美茂井地区に湧く清水の近くに祀られるカサスゲ神社(社殿はない)を同郡「片管(カタスカノ)命神社」に、集落南方の山(南子山)に祀る南子(なご)宮(諏訪神社)を同郡「南子(ミナミコノ)神社」(ミナコノとも)だとする説もあります。 10月10日の御笏神社の例大祭で執行される巫女の舞などの神事は古式を残しており、都指定無形民俗文化財に指定されています。この神事で今も使われている銅製鍍金銚子、銅製提子、陶製黒釉瓶子と銅鏡十一面は鎌倉〜室町時代の作で都指定文化財となっています。また神着の個人蔵の銅鏡四面も平安時代末期〜室町時代のもので同じく都指定文化財。 都道を挟んだ御笏神社北側の壬生氏の屋敷地内には伊豆諸島最大最古の民家、壬生氏が役宅として使用した三宅島役所跡(都指定史跡)があります。前庭にはビャクシンの巨樹(都指定天然記念物)があり、神着出身の元日本社会党委員長の浅沼悦太郎が島外流出を防ぐために収集した江戸〜明治期の古文書(107点)は良質な近世資料を含むそうで、三宅島民政資料の名称で都の文化財に指定されています。 |
神着では昭和時代の2回の噴火で2つの山が誕生 |
神着の南東にある「赤場暁(あかばきょう)」は島の東海岸に展開する溶岩原で、アカバキョウ、アカバッケ、アカボッキョウなどとも呼ばれています。溶岩原は有史以前と昭和期の噴火によるものとが混在しているが、1940(昭和15)年の噴火では、それまでの入江が埋没して噴火口に「ひょうたん山(64m)」が、さらに1962(昭和37)年の噴火ではその南方に「三七(さんしち)山」が誕生しています。
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三宅一週道路から一歩外れた神着集落の静かなたたずまい |
溶岩原の北部には志理太宜神を祀る「椎取神社」があって、延喜式神名帳に記載される伊豆国賀茂郡の「志理太宜(シリタキノ)神社」とする説があるそうです。椎取神社一帯の照葉樹林帯内に流れ込んだ溶岩流は特色ある景観を構成し、学術的にも重要視されて「椎取神社の樹叢と溶岩流」の名称で都指定天然記念物になっています。 また、勤労福祉会館の庭にある都指定天然記念物に指定されている神着の大ザクラは、大島の国指定特別天然記念物「大島のサクラ株」に次ぐ巨樹。 |
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