小金井小次郎の井戸
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今は郵便局となった旧伊豆小学校の校舎脇にある入口

「小金井小次郎の井戸」の入口は廃校となった伊豆小学校の校舎を利用した伊豆郵便局の脇にあります。旧小学校の校門から校庭に入り、旧校舎の正面から右手に回り込むと小さな案内板が立っていますが、ちょっと気がつきにくいかもしれません。






小金井小次郎井戸への唯一の案内板がこれ

旧校舎の脇から裏手に回る場所にポツンと立っていた案内板。三宅島を訪れた観光客がこぞって訪れるようなスポットではないので、付近に人の姿は全くなかったな。これでも一応、案内板があるからいいものの、そうでなかったら勝手に敷地内に立ち入るような感じでどこか不法侵入チックな気もしますが、まあいいか。






井戸へと続く誰もいない小径

案内板の矢印が示す方向に雑草が映えてコケむした小径が延びていましたが、鬱蒼として暗い感じがします。でもこの先に小金井小次郎の井戸があるみたいだな。






誰もいなかった井戸と石碑と説明板

お、ありました。柵で囲まれた部分が小金井小次郎の井戸らしく、傍に石碑と説明板が立っています。しかし、観光客はおろか、地元民でさえ訪れそうにもない雰囲気。

昔は水に乏しい離島において「井戸」はとても重要でしたが、水道設備の整った現在ではこんなものかな。やはり訪れる人の姿は全くありませんね。






「小金井小次郎の井戸」の由来を記した説明板
小金井小次郎の井戸
任侠小金井小次郎は、武州小金井(東京都小金井市)の名主関氏の次男で関小次郎という。

安政3年(1856年)喧嘩の罪で流され、慶應4年4月に赦されるまでの13年間この伊豆の地が配流地であった。
在島中、水に悩む村民の姿を見て大きな井戸を作ってこれを救い、
小次郎の井戸と名付けられたのがこの井戸である。

赦されて江戸に帰るとき伊豆村出身の娘を養女として伴い、その子孫は今もなお小金井に居住している。
明治初年(1868)、自由の身で再び三宅島を訪れて木炭の製造を指導し奨励している。

小次郎が無縁の人々を供養するために建てた地蔵尊は、今もなお曽利川の墓地内にある。
三宅村
小金井小次郎(関小次郎)さんは博打好きだったことから実家の勘当を受けて無宿人となり、賭博の科で三宅島に流罪となった人。島に流されても博打の再犯を重ねていますが、普済院の住職によって島替えをうまく逃れたりしています。

そんな小次郎さんが配流されたのが伊豆村ですが、伊豆村は島内で最も水に乏しい地域で、当時の村の女性たちは桶一杯の水を頭に乗せて片道4キロの急峻な坂道を喘ぎながら往復するのが日課だったそうです。ただの博打好きではなくて、元々任侠肌であった小次郎さんが、村人の苦労をみかねて私費を投じて造ったのがこの貯水槽なんですね。






島民に親しまれた小次郎さんの名が付けられています

説明板のすぐ隣にも立っていた「小次郎井戸」とのみ記されたシンプルな案内板。小次郎さんは明治14(1881)年6月10日に64歳で亡くなっていますが、在島中のエピソードは多くて「小次郎さん」と呼ばれるほど人気があったみたいです。

水に苦しむ村人を助け、慰安の名目で芝居もよく上演して村人を楽しませていますが、実は密かに大胆な島抜けの計画を練っていたらしいです。島抜けには武器刀剣が必要ですが、芝居道具のということで怪しまれずに集めていたとか。でも実行直前に御赦免の通知が届いたため中止したそうですよ。

ちなみに小次郎さんは赦免後の明治7(1874)年に再び三宅島を訪れていますが、それは配流中に島の人々に世話になったお礼と、炭焼きの技術を教えるため。でもその年の三宅島噴火ですぐに帰京しています。






現在は使われておらず水が緑色に澱んでいた小金井小次郎の井戸

そしてこれが小金井小次郎の井戸。伊豆川ほとりの別当原に建設され、ここに沢水を導入して村人が水源として利用しました。セメントの普及で各戸に貯水槽ができる近年まで使われましたが、簡易水道が整備された現在は利用されていません。

貯水槽のサイズは縦13m、横6m、深さ2.5mで、今はコンクリートで縁は固められていますが、元々は海岸から運んだ丸石が積まれていたそうで、その運搬には同じ伊豆村の流人たちに協力を求めています。石積みの隙間には貝の焼灰や漆喰が使用されましたが、漆喰は小次郎さんと義兄弟の契りを結んでいた江戸の町火消しの新門辰五郎さんに応援を依頼して江戸から送ってもらっています。

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