伊豆エリア 伊豆エリアの見所スポット 1 伊豆岬灯台 2 伊豆岬付近の海岸 3 御祭神社 4 小金井小次郎の井戸 5 大久保浜 6 大久保港 7 物見処遺跡 |
神社は都道から原生林を進んだ先にあります |
都212号線(三宅一周道路)沿いの椎の原生林の中にある「御祭神社」の入口です。三宅村営バス「薬師前バス停」が目印で、神社のある昼なお鬱蒼とした原生林は、伊豆諸島の固有亜種であるスズメ科の絶滅危惧種「モスケミソサザイ」が観測できる貴重なバードウォッチングのポイントにもなっているそうです。 駐車場もなくて休憩するベンチすらなくて、訪れる観光客の姿もほとんど見かけませんが、珍しい野鳥の生息する自然豊かな原生林も素晴らしく、三宅島を一周がてらに立ち寄っておきたいスポットです。もちろん島の史跡巡りで訪れるのもいいですね。 |
神社の案内板には大祭についてだけ記されています |
御祭神社 | ||
この神社には、事代主命眷属(ことしろのぬしのみことけんぞく)と伊奘諾尊(いざなぎのみこと)の孫、 和久産巣日神(わくむすひのかみ)の子、五穀をつかさどる神、豊受大神(とようけのおおかみ)の二人が祀られている。 毎年1月8日に大祭(八日様)が行われているが、この日に奉納される神楽は世界的にも珍しい神事である。 箱根芦ノ湖から大蛇が三宅島に渡ってきた時、 事代主命は着物をつけるいとまがなくて裸で大蛇に立ち向かったという神事に基づくものとされている。 神楽は、この古事にならい古い木彫りの面をつけ、 古色蒼然たる木製の大きな男性のシンボルをぶらさげて古式豊かに舞うその姿は、 神話の島ならではの風情を彷彿させ、 そのユーモラスな装束に村人はしばし時を忘れ、新しい年明けをいうわうのである。 三宅村 |
御祭神社は事代主命が三宅島に渡航されたときに島の繁栄を祈願して豊受大神を祀り、同時に事代主命の両親と一族の神様を祀ったもので、「御祭」という名称はそれに由来すると言われています。 神社が勧請した年代については、「古代」ということだけが分かっているだけで明らかではないですが、神社の祠は享保18(1733)年に造営され、29年後の宝暦12(1762)年に改築され、ついで元治元年(1864)年に再建されたらしいですよ。 御祭神社が有名なのは島民が「八日様」とよぶ1月8日の大祭。 かつては沿道に出店が並ぶほど賑わった祭典だったそうです。事代主命の大蛇退治の神話を神楽で奉納するもので、前々日の1月6日の早朝に御笏神社を出発した「御太刀様」と呼ばれる桐箱に収められた剣が社人の方にかつがれて富賀神社に向かい、そこで一白して1月7日の夕方に御祭り神社に入ってさらに一泊します。 御笏神社の宝物として祀られる大蛇退治の剣は翌日の1月8日に行われる御祭神社の神楽に登場し、神楽は「奥の院の儀」「御四楽(みしがく)」「庭の舞」「王の舞」「剣の舞」「鬼火の舞」で構成されています。 |
神社と同居する東光山万願寺の案内板もありました |
東光山万願寺 | ||
通称「薬師様」とよぶ。 本尊の薬師如来像は、元禄11(1698)年鎌倉仏師25代法喬民部が八丈島への流罪の途中、 風待ち滞在中に彫ったもので、東京都文化財に指定されている。 建物の一部は、長元5(1032)年高麗国より漂着したものと伝えられている。 宗教活動の場として存在する寺院ではないので宗派はない。 この寺院には、流人町絵師、英一蝶(はなびさいっちょう)の描いた二十四孝の一部が納められている。 三宅村 |
お寺の堂宇が神社の境内にあるというのが珍しい東光寺の案内板です。三宅島に特別由緒ある寺院はありませんが、その代わり、寺院が保存している仏像や什物の中には著名なお宝品が含まれていることが特徴なんだよな〜。 それと三宅島の寺院の細かい由緒沿革についてですが、度々見舞われた火災によって定かで無くなってしまっているのが現状らしいです。 |
入口の脇には日露戦争の記念碑もあります |
明治時代の日露戦争に出征して戦死した地域出身の戦死者を称える「日露戦役記念碑」です。三宅島島ないにも数カ所にあるみたいで、そういえば阿古の富賀神社でも境内で乃木大将の石像の立つ日露戦役の記念碑を見かけたんだっけ。
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鬱蒼としたスダシイの原生林の森の中を進んでいきます |
御祭神社と万願寺の案内板を眺めたら先に進みますが、いきなり訪れるものを圧倒するこの鬱蒼感! 神社へと続く沿道にはひんやりと張り詰めた空気が漂います。
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スダシイの古木が密生して幽谷な雰囲の漂う神社への道 |
通称「堂宇山(どおのやま)」と呼ばれる原生林の中に道は続きます。頭上を覆う木々で日差しは遮られ、日中でも薄暗い雰囲気。途中で参拝者とすれ違うこともなく、付近に人の気配は全くなくてシーンとした静寂さに包まれています。夕刻時はちょっと怖そうですが、でも太陽がギラギラな真夏の季節にはここは涼しそう。
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原生林と呼ぶに相応しい密林には巨木が何本も! |
何百年もかけてここまで大きく育った巨樹を眺めながら進みます。伊豆諸島で有史以来最多の噴火活動を繰り返しながらも、これほど巨大な古木が残されているのが三宅島の自然の素晴らしいところですね。御祭神社の森は繰り返す噴火のたびに運良くマグマによる被災を免れてきたのでしょう。
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コケむした石積み階段と真新しい鳥居の奥にある万願寺 |
原生林の見事なスダシイの巨木の脇には摩滅した古い石積みの階段がありました。鳥居の扁額には「御祭神社」と記されていますが、ここは御祭神社ではなくて「万額寺」なので間違えないように! 神社はさらに森を進んだ地点にあります。
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薬師様と呼ばれる万願寺の無人のお堂 |
鳥居の奥に見えているお堂は東光山万願寺の薬師堂。宗教活動の場としての寺院ではないので無人であり、通称「薬師様」と呼ばれています。周囲を鬱蒼とした森に囲まれて雰囲気的にも日中でもかなり暗い感じ。放置されているわけではないですが、しかし、かといって頻繁に島民がお参りに来るお寺でもないみたいだな。 それにしてもお堂の前の鳥居に「御祭神社」とあるので、初めて訪れると必ずや神社と間違えてしまいます。そういうわけなので、東京都の無形文化財になっている「御祭神社の神事(1月8日の大祭)」というはここ薬師堂の祭事ではなくて、さらに森を進んだ先にある御祭神社の祭事ですよ。 |
万額寺の先にさらに続く御祭神社への道 |
無人状態で誰もいなかった東光山万額寺をお参りしたら、さらに森の中を進んで御祭神社に向かいます。道は落葉まみれでかなり暗い雰囲気ですが、それでも路面は舗装されているのでエンジン付きで普通に進むことができます。
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神社の手前にある「堂宇のスダジイ」と呼ばれる巨樹 |
万願寺を後にして少し進むと、大きくて目立つ立派なスダジイの巨木が現れました。すぐ脇の案内板によればこの木は「堂宇のスダジイ」というそうです。道はここから小径となるのでWRはここまでですが、少し先に御祭神社の祠が見えています。 ちなみに画像中央の森の奥には先ほど立ち寄った万願寺の薬師堂の屋根が見えていますが、ここは万願寺と御祭神社の位置関係はちょっとわかりにくいかな。 |
東京都指定天然記念物「堂山のシイ」の説明板 |
堂山のシイ | ||
堂山のシイは、御祭神社の境内にあり、スダジイの自然林内に育成する一本です。 この自然林にはスダジイの大径木が多く、 その中で本樹は最も大きく、幹周9m、樹高は24mを超えます。 |
なるほどね〜。この辺り一帯の広大な森って実は神社の境内なのか。森の中に御祭神社や万願寺があるのではなくて、神社の中に森が広がっているわけですね。 そして森には過去の三宅島噴火で焼失を免れたスダジイの大木が多く残されていて、その中でも特に大きいのが「堂宇のシイ」なんだそうです。 |
森閑とした神域の原生林に生えているスダジイの巨樹 |
うわ、これは凄げぇや! まるでアメリカカリフォルニア州のセコイア国立公園のメタセコイアの巨木を思わせる堂宇のシイですが、しかしこのような巨樹が原生林状態で普通に残っているのは、ここが堂宇山と呼ばれる御祭神社の神域だから?
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ちょっとした小部屋ほどの広さがある根元の空洞 |
おお、根元部分が小さな部屋ほどの広さで空洞化しているじゃないですか! それでいながら木の勢いに衰えが見られず、なんという生命力! 幹の空洞化は内部の組織が腐って欠落したために起こり、木の老化や衰弱を示すものですが、そのことが直接樹木の生死に関わることはないらしいそうです。 しかし、樹齢の高い巨樹の場合は、このような空洞があった方が風格や存在感がぐっと増すようで、なのでわざわざ「堂宇のシイ」と呼ばれてきたのでしょう。四畳半くらいはありそうな空洞の中に入ってみたい気もしましたが、それはやめておきました。 |
小屋の中に納められている御祭神社の祠 |
そして堂宇のシイを過ぎた先に鎮座しているのが御祭神社です。しかし、御祭神社はその由緒沿革や、社名に相応しくないほど小さくて、神社というよりは「祠」と呼ぶ方がふさわしいささやかなものでした。「これが?!」と思ってしまいますが、それでいながら広大な面積の社域を有しているところに、御祭神社の沿革がしのばれますね。 ちなみに島民が八日様と呼ぶ1月8日の大祭では神楽が奉納されますが、その神楽で使用される「女面」「男面」「鼻高面」「べしみ面」と呼ばれる「木造楽面」は東京都指定有形文化財に指定されていますが、普段は三宅島郷土資料館に展示されています。 |
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