大久保浜
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三宅一周道路から海辺へと下った先にある大久保浜

三宅島の西に位置する伊豆地区で都212号線(三宅一周道路)から都214号線(伊豆大久保港線)に入り、右手下方に大久保港を眺めながら海岸の崖を下っていくと目前に広がる砂浜の海岸が「大久保浜」。全長およそ2キロにおよぶ三宅島最大の砂浜は黒砂の黒色海岸になっていて、「全国優良水質ビーチ10選」にも選ばれており、夏は海水浴やダイビング、サーフィンスポットとして賑わいます。

浜の背後には細長く静かな大久保集落の家並みが続き、集落の外れには三宅島の電力供給を一手に担う東京電力の「三宅島内燃力発電所」があって、旅館と民宿が1軒づつあります。そのうちの「川徳旅館」は三宅島滞在中に一泊した旅館ですが、すぐそばには「大久保キャンプ場」もあります。

島を一周している三宅島一周道路から外れているため、自前の移動手段がないとなかなか訪れにくいと思います。島を周回する村営バスが必ず立ち寄りますが、それでも右回り左回りでそれぞれ1日4便しかありません。






浜のすぐ背後には火山の噴火の痕跡である海食崖が連なっています

手前の「大久保港」と海に突き出す「大崎」の岬とに挟まれたおよそ2キロに渡って黒砂の浜が続く大久保浜。すぐ背後には高さ60mほどの断崖が続いていますが、これは過去の火山の噴出物が海食崖として露出したものです。そして崖下の僅かな平地に民家が連なり、そのすぐ前が浜辺になっているんですね。






かつて大漁続きで不夜城の賑わいを見せていたという大久保浜

現在は人影も少なくてひっそりと寂れて古老の語り草になっていますが、大久保浜は元はトビウオ漁が盛んであったところです。最盛期には伊豆、房総方面から漁業に従事する出稼ぎの人々であふれ、漁業の好景気に湧いた大久保浜には数十件の飲食店が出現。昼夜をわかたぬ弦歌のさざめきで不夜城の盛況だったそうです。

ちなみに、トビウオやムロアジから作られる三宅島名産の「クサヤ」の干物は、かつてその大部分がこの地域で生産されており、大久保浜でもクサヤ製造の水産加工場がありましたが、平成12(2000)年の火山噴火による全島避難や、材料とする魚が獲れなくなったせいもあって今は全て廃業して全滅状態。

また、大久保浜は三宅島の海岸で地引網が行われていた唯一の場所で、明治、大正、昭和の前期には盛んに行われていました。しかし現在は地引網を行う漁師はおらず、地引網の漁業権の免許そのものが消滅しているらしいです。

夏には島外から海水浴やマリンスポーツで多くの観光客が訪れる黒砂の美しい大久保浜ですが、その一方で、ムロアジとトビウオの大漁が続いて賑わったかつての大久保浜と集落の面影はすっかり消えてしまっているんだよなぁ・・・。






高潮に備えた堤防とテトラの続く先には大久保漁港

大久保浜の集落のすぐ背後に広がる大久保浜。民家と浜との境界には護岸堤防が築かれ、大量のテトラポットが置かれていました。景観的にはちょっと無粋ですが、これは背後の集落のある場所は地盤が低いため、越波や浸水に対する備えです。

堤防に登ってみると海に落ち込む断崖となった浜の先端に大久保港が見えています。今にも泣き出しそうな鉛色の空が侘しい限りですが、海に向かって落ち込む断崖には、三宅一周道路に向かって崖を駆け登る都214号線の青い橋も見えています。






大久保浜のダイビング用の魚類案内板
三宅島生息海洋生物之図 大久保浜
テングダイ イシダイ コロダイ マツカサウオ イサキ ハマフエフキ
アカマツカサアカハタ クマノミ キリンミノ ハナミノカサゴ コロダイ カワハギ
これは大久保浜に生息する魚の案内板かな。大久保浜は三宅島でのダイビングではお約束のポイントで、魚の種類も年間を通して多くて変化に富み、初心者から上級者まで楽しめる場所だそうです。やはり火山島であるため岩礁域に生息する魚が多いみたい。






火山由来の黒砂が一面に広がる波打ち際

一面、真っ黒な黒砂に覆い尽くされた大久保浜の波打ち際の光景。浜の砂は歩くとザクザクとした感触で、寄せては引くさざ波の音だけが響き渡る静かな雰囲気がとても良かったです。そして月夜に散歩するスポットとしても絶好の場所らしいですよ。

そんな大久保浜の波打ち際を歩いていると、たまに一抱え以上もあるような溶岩の岩石がなぜかポツンと転がっていたのが火山島である三宅島らしいな。






かつて島を揺るがす大騒動が起きたという今は静かな大久保浜

現在の寂れて静かな浜の様子からは想像もできませんが、今から100年と少し前の明治の時代、この大久保浜で三宅島を揺るがすような大騒動が発生しています。もちろん、当時を知る者は生きておらず完全に忘れ去られた過去の出来事であり、ちょっと長いですが、「ここでそんなことがあったのか」と参考までに紹介しておきますね。

明治7(1874)年7月、神着村雄山の中腹で突如発生した噴火によって神着村東郷部落が全滅する事態が発生しましたが、噴火で流出した溶岩は現在の大久保浜へと迫り、その結果、当時の海岸は噴火の数年後には土砂や岩に覆われて砂浜へと変化しています。そして海岸が砂浜となったことで大久保浜一帯は三宅島有数の優良な浜辺となっていきましたが、それに着目した者が官有地であった大久保浜の借用を願い出て鰹節の製造を開始しています。明治27(1894)年のことでした。

噴火で新しくできた浜が、人家も立ち並んで賑わうようになってきた時、お互いが「俺が村の浜だべ!」と主張するのは当然のことで、伊豆村と神着村との間で大久保浜の所属問題が発生したんですね。「噴火で迫り出してできた場所なので官有地」ということで両村をなだめているうちに、明治33(1900)年、神着村の名主が大久保浜の道路工事を開始して翌年に完成させていますが、これを契機に伊豆村の漁船も大久保浜に入港するものが増え、さらには大久保浜で進水する新造船も多くなってきています。

大正5(1916)年、浜が賑わうようになるにつれて、そうしたことが積もり積もって、ついに伊豆村と神着村との間で大紛争が勃発! 共に自説を曲げず意地になって大久保浜の所属を主張しあいましたが、両村の主張は以下の通り。

[伊豆村の主張]伊豆村では大久保湾内で天草を採っていたが、古来からこれは伊豆村の収入であったこと。そして明治44(1911)年2月に三宅島漁業組合に与えられた特別漁業免許状に伊豆村大久保浜と記載されており、これによって大久保浜が伊豆村の行政区域に属することは明白である!

[神着村の主張]神着村と伊豆村の境界は今(大正5年)の伊豆村にある姉川であり、寛政年間には村有の物産納屋を大久保浜に設け、その後しだいに船小屋や納屋などの建設増築が行われていったことから、大久保浜は神着村の飛地である!

以上が両村の主張ですが、両村が大久保浜の所属を主張しあうところに、タイミング悪く東海汽船の定期船が発着するようになったという重大な出来事が加わったため、話はこじれて大いに紛糾しまくった模様。当時の東京府が捨て置けぬと役人2人を三宅島に派遣して解決するように命令していますが、もちろん調停は失敗。わざわざ派遣された役人は未解決のまま東京府に帰るしかなかったという騒動なんですね。

結局、明治年間には決着せずうやむやのまま、紛糾は大正の時代にまで及んだみたいですよ。ちなみに、現在の大久保浜は東京都三宅支庁の管内地図では伊豆地区に組み込まれて記載されています。






神着地区に立っている大久保浜を示す道標

大久保浜 Okubohama Beachi  三宅島一周道路 Miyakejima Around Road 三宅村
三宅島一周道路と呼ばれる都212号線から大久保浜へと至る都214号線の都道区間は浜の背後の「大久保」集落で終点となりますが、道はぐっと幅員が狭まった村道となって海岸伝いに神着まで続いています。

引き返す事なく大久保浜を眺めながらそのまま進んでいくと、やがて神着に入ったところに「大久保浜」と記された道標が立っています。付近の詳細マップも掲載されているので、神着方向から大久保浜に向かう場合はこれを眺めればバッチリです。

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