2024 雪景色を求めて適当に東北旅 〜男鹿・津軽・八甲田・下北〜 2月5日(月) 林道探索の書 〜今日もどこかで林道ざんまい〜 
4日目  能代市→ 青森市「みちのく深沢温泉 Michinoku fukasawa onsen もどる  






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R103を左折して八甲田スキー場に進んでいきますが、現在時刻は午後3時ちょっと過ぎ。たまに対向車とすれ違いますが、すれ違うのは家路につく日帰りスキーやスノボー客と思われる車ばかり。基本、朝は八甲田に向かう車が多く、夕方は青森市街地へと山を降りていく車が多いような気がします。







路線バス? 凍てつく雪道を進んで行くとオレンジ色の大型バスとすれ違いましたが、そういえば八甲田には青森駅〜十和田湖間を結ぶJRバス東北の路線バスの「みずうみ号」が運行されているんだよな。

ただし、酸ヶ湯温泉〜十和田湖間はR103が冬季閉鎖されてしまうため、通年運行されているのは青森駅〜酸ヶ湯温泉間のみ。1日3往復だけで運賃は片道1570円かかりますが、みずうみ号は当日予約なしで乗ることができるので、これならば車がなくても電車とバスを乗り継いで酸ヶ湯温泉に行くことができますね。







やがて現れる八甲田スキー場入口を示す標識。厳冬期の八甲田といえば「樹氷」が有名ですが、八甲田スキー場ではスノーシューハイキングガイドの予約も受けて受けているので、雪山歩きと樹氷群を間近で眺めてみたい方はどうぞ。

 [ 八甲田国際スキー場 ]
リフト1日券 / 5000円 4時間券 / 4000円 11回券 / 4000円
スノーシューハイキングガイド1人のみ / 10500円 2名以上 / 8400(1人)円
※ガイドの予約は5日前まで







続いて「八甲田ロープウェー」の「山麓駅」入口の標識が現れます。季節を問わず八甲田の美しい自然が楽しめるロープウェイで、厳冬期には樹氷鑑賞目当ての観光客も多いのだとか。ただし、「山頂公園駅」は標高1310mに位置しているため、冬は強風で運休になることも多いので要注意。

ちなみに樹氷については、わざわざ料金のお高いロープウェイに乗ったり雪山歩きをしなくても、眺めることができる場所はあります。

 「八甲田ロープウェー」
営業時間 / 始発9:00 運転間隔 / 5〜20分 所要時間 / 約10分
終発 / 3〜11月上旬は16:20 11月中旬〜2月は15:40
片道 / 1400円 往復 / 2200円







ロープウェイ入口を過ぎて「前嶽(1251.7m)」南麓に広がる森を進んでいくと、やがて「銅像茶屋」に至る県40の右折分岐が現れるので、そこを右折。直進は青森市街方向ですが、途中の「雲谷ゲート)」までは21時〜翌7時30分の間は夜間通行止めとなるので、電光掲示板は気温-6℃の表示と共にそれを告知しています。







R103から県40に入りました。黒石方面と青森市街を結ぶ国道ルートではたまに車とすれ違いましたが、ここではそれもぱったりと途絶えます。せっかくなので、道すがらに広がる森の雪景色をじっくり眺めてみたいところですが、雪道で片側車線を塞いでの路駐は極めて迷惑になりますなぁ。

結局、対向車や後続車がやって来ることはなかったのですが、そのような時にちょうど良かったのが路肩の待避スペースでした。そこでならば追突される危険や、通行を妨げることなく、また、他の車に邪魔されずに景色を眺めることができますね 。







待避所に車を止めて車外に出ると、まず目につくのが路肩に連なる雪の壁。除雪は通行止めの規制がかかる夜間や早朝に行われているのだと思いますが、ナイフでスパッと切り取ったようにきれいな垂直状態で雪の壁が連なります。







おぉ、森は雪まみれだぜぇ! 路肩の脇はまさに白銀の世界。木々も強風で雪が横殴りに吹きつけたのか全身雪まみれです。

森の中に広がるなだらかな雪原は簡単に歩き回れそうに見えていますが、積雪量は2mほどもあるのでたぶん無理。雪に全身埋もれて「歩く」というよりも、それは「雪の中を泳ぐ」といった方がふさわしかも・・・。







うわぁ・・・。森の木々を眺めてみると、雪塊がねっとりと絡みつくように枝や幹に付着しています。八甲田に吹く風の強さと雪の凄さが実感できました。







見上げた空は一面に鉛色。今は雪は止んでいますが、天気はこまめに急変し、僅かな時間で雪が降ったり止んだりを繰り返す状態だったかな。







待避所を出発。どこもかしこも雪まみれであった県40を銅像茶屋方向にゆっくりと進んでいきますが、それにしても雪化粧した森がきれいだな〜。夏は緑一色に包まれて単調さを感じてしまうこの区間も、冬は雪景色に見とれて飽きがきません。







路肩に連なる雪の壁。途中で何度も待避所に立ち止まって森を眺めましたが、人の背丈を超える高さで降り積もった雪の壁に阻まれてしまい、その場でぴょんぴょんジャンプしないと森の奥はよく見えなかったです。







路肩に連なる雪の壁を接写。降っては積もり、降っては積もりの繰り返しで硬く圧縮され、下層は凍結して氷のようにガチガチでしたが、試しによじ登ろうと試みるも、そこまでの固さはなくてまったく取り付くシマがなかったぜぇ。







画像だと実感しにくいので、雪壁をレンタカーと一緒にとこんな感じ。積雪量が軽く車の屋根の高さを越えているのが分かりますね。







また雪が降ってきました。雪が降り出すと、瞬く間に辺り一面が白一色に包まれてしまいますが、それにしてもなんとも美しいことよ!







垂直にそそり立つ樹木の幹や枝にモサっと付着していた雪塊。よく眺めると、どの幹や枝も片側にだけ雪がへばり付いていましたが、猛吹雪の時って雪は上からではなくて、真横から横殴りで吹きつけてくるんだよな。







そんなこんなで雪景色を楽しみながら進んで行くと、やがて突き当たりとなって県40が左右に分かれる銅像茶屋に到着。左折側は青森市街地方向、右折側は道標に「十和田湖・田代平」と記されたみちのく深沢温泉方向になっていますが、青森市街地方向は「冬季閉鎖中」とも記されていました。







銅像茶屋でR103方向を振り返るとこんな感じです。R103方向は冬季閉鎖はされませんが、21時〜翌7時30分の間は夜間通行止めとなり、通りがかる車がいるとしたら、それは「蔦温泉」もしくは「谷地温泉」に向かう車と帰り客くらい。十和田湖への道は冬季閉鎖中なので、蔦温泉から先には行けねーし。







うひゃぁ〜! こちらは大峠、小峠、田茂木野、幸畑を経て青森市街に至る県40の左折方向ですが、「嘉瀬子内ゲート」までは冬季閉鎖中。なので凄まじい量の雪が除雪されることなくそのままの状態で積もっていました。

八甲田といえば1902(明治35)年1月23日に発生した、参加将兵210名のうち199名が命を落とした陸軍青森第8師団所属の歩兵第5連隊による「八甲田雪中行軍遭難事件」が知らぬ者はいないほど有名ですが、冬季閉鎖されたこの先は遭難した第5連隊の雪中行軍ルートと重なる区間。

八甲田雪中行軍は対ロシア戦に備えた訓練ではなくて、耐寒行軍研究の一環として5連隊および第31連隊で実施されましたが、遭難したのは5連隊の方。「山口ケ(しん)少佐」が実施を決定し、実施上の詳細は「神成文吉大尉」が作成しています。

本行軍に先立って神成大尉は1902(明治35)年1月18日に「小峠」までの予備行軍を試みていますが、この時は天候に恵まれて予備行軍も順調に行われたので、同年1月23日に210名による「田代新湯」までの1泊2日の雪中行軍を行うことを決定。予定通り青森市筒井の第5連隊兵舎を出発したみたいです。







県40が青森市街地、酸ヶ湯温泉、みちのく深沢温泉へと分かれる場所にある分岐銅像茶屋ですが、あぁ、完璧に雪に埋もれているなぁ・・・。

以前は観光シーズンには八甲田観光の拠点として多くのライダーや観光客で賑わっていた銅像茶屋。施設の老朽化や経営難のため、2018(平成30)年に廃業してしまったのですが、2024(令和6)年に6年ぶりに営業再開したそうですよ。







ただし、真冬の季節はこの通り。観光シーズン中はツーリングライダーの憩いの場所となる銅像茶屋の広い駐車場も今は雪まみれ!

そして銅像茶屋の脇から少し登った先には、遭難事件を記念して建立されたモニュメント「歩兵第5連隊第2大隊遭難祈念碑」があるのですが、見ての通り、大量の雪に阻まれて一歩たりとも近づくことができなかったです。







ビシッ、後藤房之助伍長に敬礼! これは銅像茶屋裏手の丘にある歩兵第5連隊第2大隊遭難祈念碑に建立された銅像です。

銅像は生還者11人のうちの1人、仮死状態のまま立った姿で発見された「後藤房之助伍長」。ロシアの侵入を予想した青森湾に向けて建てられ、遭難事件を日露戦争の勝利と日本の発展のために必要だった犠牲として喧伝し、軍記を守った壮烈な勇士を顕彰する表象になっています。

ちなみに第5連隊の遭難事件は犠牲者数が多かっただけに、遺族や地域社会の人々は陸軍当局の対応や、天皇の叡旨に感謝して「殉国の勇士」として理解しながらも、遭難死の恐怖から徴兵忌避が起こっています。

近頃はネットや動画で「最怖のタブー」とか「雪中行軍遭難事件の真実」などと語られることが多いですが、早い話が、国民の徴兵忌避を恐れた政府や軍当局にとって責任論の鎮静化が必要だったんですね。そのため兵士が上官を介抱しつつ凍死したという殉国の勇士系の美談が国家的に生み出され、そして政治的意図によって遭難事件の様々な事実が隠蔽されたというわけ。

なお、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」では遭難した将兵が靖国神社に合祀されたことになっていますが、実際には靖国神社に合祀されていませんよ。







銅像茶屋から見渡せる「馬立野」の雪原と森。馬立野は高原のように開けた場所で、ここから雪中行軍の目的地であった田代新湯までの距離は直線でおよそ2kmほど。天候に恵まれればこのように視界も良好ですが、ひとたび吹雪くと視界が全く失われてしまい、開けた地形が仇となって方向を見失うんですね。

馬立野は第5連隊が、田代新湯への到着は難しいと判断して1泊目から2泊目にかけて露営した「鳴沢」の少し手前に位置し、大量の雪に阻まれて輸送用の橇を放棄した場所。日暮れの訪れとますます激しくなる吹雪によって、あと僅かの距離でありながら、結局、田代新湯にたどり着くことができなかったんだよなぁ・・・。







だってほら、少し吹雪いただけでこの有様です。一気に視界が悪くなってしまい、ちょっとの間も車の外に出ていられぬほどの寒さになってしまいます。







こちらは第5連隊の行軍ルートと一致する冬季閉鎖中の幸畑方向ですが、極寒の猛吹雪の最中にここを歩いていけますかってな話ですが、たぶん凍死しますなぁ。

ちなみに真冬の八甲田の厳しさは今も変わりはなくて、冬山遭難は毎年のように発生しています。そのほとんどが八甲田スキー場を訪れたスキーヤーやスノーボーダーが吹雪などの視界不良でコースから外れたり、スノーシューによる山中の散策中に発生しており、具体的には転倒や雪崩、亀裂転落に遭うといったものですが、近年では外国人観光客の遭難もあるみたいです。

また、以前は遭難事故の救助費用は無償だったのですが、訪日外国人の増加や無謀な行動による事故も増加しているため、現在はスキー場の管理区域外や、閉鎖中のコース、営業時間外での遭難救助要請があった場合、その費用が遭難者に請求されるようになっていますが、まあ、当たり前の話だな。

なお、第5連隊遭難事件レベルの大量遭難事故は以来発生していませんが、スキーツアー客とガイド24名が雪崩に巻き込まれて10名が死傷した事故が2007(平成19)年2月に発生しています。しかし、それを覚えている人っているのでしょうか?







吹雪によってホワイトアウトした馬立野の銅像茶屋にて。暖房がガンガンに効いた車内は快適そのものですが、一歩外にでればそこは極寒地獄。吹き付ける雪混じりの風によって体感温度は著しく低下し、寒さが半端じゃなかったです。

なお、寒さといえば「低体温症」によって死に至るのが「凍死」で、低体温症は精神状態に大きな影響を与えます。雪中行軍遭難事件は組織指導者への教訓として捉えられることも多いですが、低温下では正しい判断ができずに遭難することがあるという教訓だったりもします。参考までに低体温症の程度と精神状態の特徴は以下の通り。

 [ 軽度 ]深部体温35℃〜32℃
判断力の低下、健忘
1902(明治35年)1月23日、第5連隊はいったん露営を決定したものの、翌24日の真夜中午前2時に方向も分からぬまま出発したという判断。雪山の知識不足もありますが、そもそも正しい判断ができる状態ではなかったんですね。

 [ 中度 ]深部体温32℃〜28℃
疲労、興奮、混乱、幻覚、無気力、健忘、矛盾的脱衣
八甲田雪中行軍の死者のうち3名は裸体で発見されていますが、低温にも関わらず着衣を脱いでしまう矛盾的脱衣や精神的に異常をきたす者が続出しています。

 [ 重度 ]深部体温28℃以下
せん妄、幻覚、昏睡、仮死
銅像のモデルになった後藤伍長は雪の中で仮死状態で発見されていますが、数少ない生存者の一人になっています。

以上のように重度の低体温症では精神機能の低下は著しいですが、低温が脳の機能に与える影響は可逆的と考えられ、細胞の障害は最小限に抑えられます。したがって体温が上昇して身体機能が回復するに伴って脳の機能も回復、後藤伍長のように正常な精神状態に戻る可能性があるんですね。

だからもし冬山で遭難して長時間低温に晒されても、復温して死亡を確実に確認するまでは死亡宣告をしてはいけないんだぜぇ。







なお、夏のツーリングシーズン中の銅像茶屋からみちのく深沢温泉へと向かう県40はこんな感じ。快適2車線道路が続いていますが、途中で5連隊が目的地にたどり着くことができずに露営した「現場」を途中で通ります。

雪のない季節に訪れると、露営地は藪に覆われただけのなんの変哲のない場所にしか見えませんが、ここでも大勢の将兵が凍死しており、結局、雪中行軍に参加した210名のうち193名は凍死体または凍死後に発見され、救助されたのは僅か17名でしたが、そのうち6名は青森衛生病院に入院中に死亡したそうですよ。

その後、捜索隊本部が設置された田茂木野で1902(明治35)年7月23日に慰霊祭が行われ、遭難事件の顛末を記した「遭難始末」が記されて事件は一応の終焉を告げていますが、あの遭難事件から今年ですでに123年かぁ・・・。







第5連隊が遭難2日目に露営した現場には「鳴沢第二露営地」とだけ記された標識がぽつんと立っていますが、ここは夏でもひんやりと涼しい寒冷地。

真冬の頃は凄まじい寒さになりますが、遭難が発生した当日は日本観測史上最大級の寒波に見舞われ、日本最低気温(公式には旭川気象台 / -41.0℃・非公式には北海道幌加内町母子里 北大演習林 / -41.2℃)を記録した日だったそうです。

当日の気温は-20℃ほどだったと推測されるので、やや大袈裟ですが、体感温度は-50℃にもなっていたとも言われ、行軍中の携行食として犠牲者の背嚢には「牛肉缶詰」「道明寺糒(もち米のほしい)」「紅漬け大根」が残されていたそうです。つまり、手の凍擬のため携行食を取り出すことができず、取り出せたとしても凍結して食べることは不可能だったと考えられています。

雪中行軍遭難事件の原因はなんやかんやと言われていますが、結局は「現地の雪情報の貧弱さ」と「装備と計画の貧弱さ」がもたらした悲劇ですね。







あはは、Gパンにスニーカーかぁ。おかげであっという間に雪まみれになっちゃいましたが、我ながら真冬の八甲田をナメてるぜぇ・・・。

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