2025 冬景色の海を眺めて適当に東北旅 〜津軽沿岸・津軽海峡・陸奥湾沿岸〜 2月2日(日) 林道探索の書 〜今日もどこかで林道ざんまい〜 
3日目  五所川原市→ 外ヶ浜町平舘不老不死温泉 tairadate furofushi onsen もどる  






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鋳釜崎を後にしたら再び断崖の連続する袰月海岸を東に進んでいきますが、するとすぐに現れるのが今別町「袰月」の漁村。長く伸びた防波堤は「袰月港」の一部ですが、港は鋳釜崎と高野崎に囲まれた湾にあり、昔は「ヤマセ(東風)」の避難港に利用され、江戸時代には袰月港目付役人が置かれていたそうです。







なお、袰月漁港の先、袰月の湾の向こうには海に突き出した岬が見えていますが、あれは高野崎。岬の先端には赤白カラーの「高野崎灯台」も小さく見えています。ちなみに現在地点から高野崎灯台までの直線距離は1.4km。







断崖上をゆく国道から眼下に見えていた雪の袰月港と袰月集落。先ほど通った外ヶ浜町の于鉄集落と同じく、かつて袰月にもアイヌの人が住んでいて、1691(元禄4)年にはアイヌ人が営む宿が2軒あったとのこと。

2012(平成24)年には袰月で合同会社「袰月海宝」が設立され、袰月で採れた「天然岩わかめ(580円)」や「天然岩もずく(480円)」などが販売されているので、津軽海峡の荒波で育まれた袰月産の海藻を食べてみたい方は通販でどうぞ。







対向車もほとんどないのにタイミング悪く片側通行の信号待ちに引っかかってしまいましたが、袰月の集落内を通過中。通りに人の姿は全くなく、今は淋しい一漁村にすぎませんが、昔は蝦夷に行く場合、最も利用されていたのが津軽半島の三厩港だったので、おのずと多くの有名人が袰月を通っていったそうです。

具体的には1785(天明5)年には医者「橘南渓」が、1788(天明8)年には旅行家「菅江真澄」や「古川古松軒」が当時の袰月村を通り、1800(寛政12)年には測量家「伊能忠敬」が袰月村名主の小倉四郎兵衛さん宅で宿泊しています。







袰月を通り抜けて高野崎に到着しました。灯台に至る広い敷地内には「高野崎キャンプ場」を始め、「海の駅お食事処高野崎」がありますが、クソ寒い真冬に吹き晒しの高野崎を訪れる観光客がいるはずもなくて人の姿はゼロだったです。ちなみに高野崎は「こうやさき」ではなくて「たかのさき」と読み、別名は「鷹野崎」。

なお、駐車場のすぐ先にある建物は2階が無料開放の展望台「展望いさりび」で、1階が海の駅になっていますが、公衆トイレも含めた全ての施設が冬季閉鎖中で、どこもかしこも一面雪だらけで真っ白だったなぁ・・・。







人っ子一人誰もおらず白銀の世界となっていた高野崎。駐車場の先には高野崎キャンプ場が広がっていて、そこを通り抜けた先に高野埼灯台があるみたいです。







高野崎にある予約不要かつ無料な高野崎キャンプ場の炊事場。開設期間は4月下旬〜10月末日までとなっていますが、ここは目の前に津軽海峡が広がるロケーションで人気のキャンプ場になっているみたいだな。津軽半島の林道探索ツーリングで宿泊費を浮かせたいテント持参の林道ライダーはここで宿泊を!







おお、高野埼灯台出現! キャンプサイトを通り過ぎてさらに雪原を進んでいくと、やがて津軽海峡を見晴らす高野崎と高野埼灯台が見えてきました。







北に北海道、西に龍飛崎、東に下北半島が一望できる高野崎の岬に立つ「高野埼灯台」です。モノトーン調の冬景色の中で赤色が鮮やかに映えていますが、津軽海峡に向かってそびえ立つ姿は威風堂々として凛々しい限り! 諸元は以下の通りです。

      【高野埼灯台】
構造 / 塔形
塗色 / 白地に赤横帯2本
灯質 / 等明暗白光 / 明3秒 / 暗3秒
光達距離 / 8海里(およそ14816m)
塔高 / 11m
灯高 / 36m
初点灯 / 1966(昭和41)年1月
位置 / 北緯41度13分7秒 / 東経140度32分9秒







細長く海に突き出た陸地が津軽海峡に没する高野崎の先端地点です。よく眺めると岬の岩礁地帯に赤いものが小さく見えていますが、あれは「潮騒橋(手前)」と「渚橋」。どうやら高野埼灯台の先には遊歩道があって、磯場に架けられた橋を渡って高野崎の最先端まで歩いていけるみたいです。

ちなみに高野崎では、1937(昭和12)年7月に日中戦争が始まると敵機の本土来襲を察知する「高野埼監視所」が置かれています。また1943(昭和18)年頃には津軽海峡に侵入した潜水艦の探知および、本土防衛にあたるため「鷹野崎海軍兵舎」が建設されていますが、1945(昭和20)年に終戦となったため、兵舎は完成したものの、実際に兵士が入舎することはなかったそうですよ。







高野崎の先端部分。遊歩道が赤い太鼓橋の潮騒橋と渚橋を渡って先端地点に向かっているのが確認できますが、2つの橋は1973(昭和48)年に作られたらしいです。

なお、海に突き出した岬が防波堤の役目を果たし、津軽海峡側(画像前方)は波があるのに、岬を挟んだ手前は凪いでいる状況がよく分かりますが、風が強くて波の荒い冬は岬の先端には近づかない方が無難かもしれません。







高野崎から左手に西の方角を眺めてみると、先ほど通った袰月の漁村の家並みと、さらにその先には三厩へと続く今別の海岸線が見えていましたが、すぐ手前には前後左右を断崖に囲まれた小さな入江も見えています。

なお、前方のひときわ大きな岩塊は「大石」と呼ばれ、高野崎から大石までの海岸、すなわちこの小さな入江は「大石のかげ」と呼ばれているそうです。そして大石のかげには奇岩や怪岩が点在しているそうで、それらには「えぼし岩」や「お舎利のおや岩」とか「たこ岩」などの名称が付けられているみたいです。







続いて右手に東方向を眺めてみると、前方には「立石」の鼻が、そしてその先には今別町「砂ヶ森」の港および「弁天崎」が見えています。







おお、あれが弁天崎かぁ! 雪化粧の弁天崎の岬がとてもきれいですが、弁天崎のすぐ手前にあるのが砂ヶ森の漁村と砂ヶ森港。砂ヶ森もこれから通っていきますが、袰月海岸にはこんな感じで小さな漁村と漁港がいくつも連なっています。

なお、弁天崎の向こうには陸奥湾の入口となる平舘海峡および、対岸に下北半島の陸地がよく見えていましたが、位置的には佐井村の「仏ヶ浦」辺りかな。







高野崎の東に小さく突き出した鼻。そのすぐ鼻先の海中から大きな岩が屹立していますが、あれは「立石」というそうです。波一つない静かな海面はまるで磨き上げた鏡面のようにすべすべで、淡くエメラルドグリーンに染まった海の色がとてもきれい! 透明度も高くて海底の岩礁までもがバッチリ見えていましたよ。







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そしてこちちらは高野崎の正面に広がる津軽海峡の海。方向的には北ではなくて北東になっていますが、画像右手に見えている陸地は下北半島で、ちょうど佐井村から「大間町」の「大間崎」にかけての海岸線ですね。

ちなみに下北半島最北端の大間崎のさらに先、津軽海峡を越えた先には北海道の亀田半島が位置していますが、その距離は高野崎から直線距離にしておよそ63km。さすがに高野崎からは全く見えていませんでした。







うぅ、寒い! 高野崎から津軽海峡をしばし眺めますが、吹き晒しの高野埼灯台の傍にたたずんでいると、吹き付ける冷たい海風で体温が奪われていくのを実感。

寒くて鼻水タラタラなので雪原を急ぎ車に引き返しますが、しかし、今日はこれでも天候的には全然穏やかな状態ですね。もしも吹雪いていたならば、高野崎から津軽海峡見物なんてとてもじゃないけど無理だと思います。







R280に復帰したら陸奥湾の平舘を眺めつつ南下して今別町から外ヶ浜町に入りましたが、ここは外ヶ浜町「平舘石崎長屋形」付近。「親不知」ではなくて「綱不知」と呼ばれる海岸が続き、陸奥湾の波がひたひたと道路を洗うような波打ち際を進んでいきますが、路面はご覧の通り凍結&積雪で真っ白!







道すがらに広がっている綱不知海岸です。眺めているのは平舘海峡の津軽海峡側の出口になる北東方向で、でうっすらと見えている陸地は下北半島。気温は極寒ですが、袋小路になった陸奥湾への入口の海なので波もほとんどなくて穏やかでした。







高野崎方向を振り返るとこんな感じ。路肩には綱不知海岸の波打ち際が迫り、路面も完璧に凍結している状況が確認できますね。高野埼〜平舘間はなかなか風光明媚な区間につき、ここは過去の林道ツーリングの途中で何度も通っています。







綱不知海岸を平舘に向かって南下していくと、平舘海峡が津軽半島と下北半島の陸地に両側から挟まれた狭い「水道」であることが実感できる景色が現れました。前方右手で陸地が海に突き出ている辺りが外ヶ浜町「平舘」で、左に見えているのは斧の刃の形をした下北半島先端部分の最南端地点「北海岬」でしょうか。







おお、平舘海峡の全貌が目の前に! 平舘海峡は北は高野崎から下北半島の焼山崎を結んだ線、南は外ヶ浜町平舘と下北半島の鍋島を結んだ線に囲まれた範囲の海。北で津軽海峡に、南で陸奥湾に繋がっています。

そんな平舘海峡は本州と北海道を結ぶ海上交通の要路。現在、平舘海峡を航行する定期航路には青森〜函館・室蘭を結ぶ「津軽海峡フェリー」および、青森〜函館を結ぶ「青函フェリー」がありますが、ここで平舘海峡のど真ん中を南下していく津軽海峡フェリーの函館発青森行き「ブルーハピネス」の白い船影を目撃!







平舘海峡を挟んだ先には下北半島のがよく見えていますが、ちょうどあの岬の先端は下北半島最西端の最果ての漁村「九艘泊」が位置すところ。今回の旅では九艘泊も訪れてみるつもりですが、対岸のすぐそこに見えているというのに平舘から陸奥湾を回り込んでむつ市九艘泊に向かうとなると、その移動距離は実に190km!

さすが今日これから九艘泊を訪れるのは時間的に無理ですが、青森県は西に日本海、東に太平洋、北に津軽海峡があって三方を海に囲まれているため、とにかく海岸線が長いんだよな。総延長は746.418kmにもおよび、それは青森県庁から東京日本橋に達する距離ですが、それでも長さ的には全国15位だったりします。







その後さらに国道を南下し、外ヶ浜町「平舘石崎沢」で国道から旧松前街道に入って海沿いを進んでいくと、やがて外ヶ浜町「平舘太郎右エ門沢」で白亜の「平舘灯台」が現れました。本日の目的地「平舘不老不死温泉」はもう近いですが、急いで宿にチェックインする必要も別にないのでちょっと立ち寄ってみます。







ちょうど「道の駅たいらだて」の裏手の海岸にすっくと立つ平舘灯台。灯台の立つ場所は岬や鼻ではなかったですが、1899(明治32)年4月に建設された歴史あるこの西洋式灯台は、古くから青函連絡船にとって重要施設だったみたい。

      【平舘灯台】
構造 / 塔形
塗色 / 白色
灯質 / 単閃白光 / 5秒毎に1閃光
光達距離 / 7海里(およそ12964m)
塔高 / 23m
灯高 / 23m
初点灯 / 1899(明治32)年4月
位置 / 北緯41度10分5秒 / 東経140度38分6秒







しかし、先ほどの高野埼灯台と同様、真冬の平舘灯台は一面の雪に埋もれて訪れる人の姿は皆無。誰もいない無人の雪原が広がっているだけだったぜぇ・・・。

なお、平舘灯台のすぐそばには、1847(弘化4)年に平舘に異国船が現れて外国人8名が上陸したことを受けて、1849(嘉永2)年に弘前藩が構築した「平舘台場跡」がありますが、そちらはこの雪なのでもちろん見学はパス。

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