為朝の袂石
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  伊ヶ谷エリア
  伊ヶ谷エリアの見所スポット
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     2大船戸大橋
     3為朝の袂石
     4井上正鐵の腰掛石
     5生島新五郎の墓
     6処刑場跡
     7大林寺
     8竹内式部の墓
     9不受不施派僧の墓

伊豆諸島に多い為朝の伝説や史跡スポットの一つ

三宅島には源為朝(みなもとのためとも / 1139〜1170?)にまつわる伝説や史跡が数多くありますが、阿古から伊ヶ谷に向かって三宅循環(都212)線を進むと道路脇にあるのが「為朝の袂石(たもといし)」。袂石とは為朝が腰掛のために懐に入れて持ち歩いた石ですが、地元の方は力石と呼んでいるそうです。

源為朝は平安時代末期の武将で源為義の八男。保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑とされますが、大島を中心に伊豆諸島で暴れまくって利島、式根島、神津島、三宅島などを制圧、その後は八丈島や青ヶ島まで影響力を広げたらしいです。結果、伊豆の領主であった工藤茂光が追討軍を編成して伊豆大島に向かい、為朝を自害させています。






為朝さんが腰掛け用に持ち歩いた石の由来板
為朝の袂石由来
茂光 鎮西八郎為朝は源氏の宗家、鎮守府将軍八幡太郎義家の嫡孫、六条判官源為義の八男である。
保元元年(1156年)官庭における新院と本院との争い(保元の乱)にあたって為朝は父為義に従って新院方に組したが敗れ、
父為義は斬られ為朝は伊豆大島に流罪を科せられた(18歳)。

野に放された自然児は若年ながらこの島で頭角を現し、近隣の島々をその膝下に抑え島の頭目と評された。
伊豆の領主狩野大介茂光は為朝の振舞に我慢がならず、これを攻めたが
一国領主と流人の力くらべは論ずるまでもない。為朝は郎党を連れて三宅島に難を逃れた。
永万元乙酉年三月(27歳)であり、大島に送られて9年目のことである。
(三宅島古記録に島方取締役24代壬生右兵衞尉実一、為朝を迎える饗応し、為朝はやがて八丈島に渡ったとある)

為朝は伊ヶ谷地内の城山に館を築き八丁礫の喜平次等郎党と共に住んだ(以来この城山地区が大屋敷と呼ばれるに至った)
源為朝は豪勇無双で強弓を引いたことは夙に知られるが、
この袂石は床几の梁にするため、常に袂に入れて持ち歩いたところから袂石の名がつけられた。
中央にくぼみがあって座り心地がよく少し雨が降った場合でも、水が溜まらないように横に細い溝がついている。
乱世に生きた薄幸の英雄が三宅島に残した唯一の遺品である。
三宅村
床几とは革や布などを張って尻を乗せる折りたたみ式の簡易腰掛けのこと。戦国武将がよく陣中などで座っている腰掛けのことですが、為朝さんは手頃な石を腰掛けように懐に入れて持ち歩いていたらしいですね。だから「袂石」というそうで、実際に使用した本物かどうかはさておき、その石が残されている場所がここみたいです。






「為朝の袂石」の左隣には下山観音が祀られています

都道沿いに今も残されている為朝の袂石ですが、すぐ隣には「下山観音」が祀られています。しかし由来板があるのは袂石だけなので、下山観音の由来についてはなにも分かりませんが、それでもきちんと花が手向けられています。






今もそこに残されている為朝さん専用の腰掛用の石

これが腰掛け用に携帯して持ち歩いたという袂石?! そこにはコンクリートで固められた「石」が確かにありますが、横向きに溝の刻まれたあの石が袂石ですね。

しかし、ちと話を盛り過ぎかも。いくら為朝さんが身長2mを超える巨漢だったらしいからといって、さすがに懐に入れて持ち歩くには重過ぎです! 源為朝が伊豆大島に流罪となったのは事実ですが、まあ、これは伝説半分ということで・・・。






「あしたばの碑」には為朝さんの句が刻まれています
あしたばの碑
我なくも 行く末まもれあした草 はもする人のあらんかぎりは
為朝

昭和53年夏 明日葉研究家 山田和快建立
うむ、これは保元の乱で敗れた為朝さんが流された伊豆大島で詠んだという句だな。しかし、源為朝が和歌を嗜んでいたという話はどこにもないそうで、後世の人が為朝さんを偲んで作ったのだと思われるそうです。なお、あしたばの碑を建立したのは阿古在住の有志、明日葉研究家兼三宅村議会議長さんですよ。

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