伊ヶ谷エリア 伊ヶ谷エリアの見所スポット 1伊ヶ谷港 2大船戸大橋 3為朝の袂石 4井上正鐵の腰掛石 5生島新五郎の墓 6処刑場跡 7大林寺 8竹内式部の墓 9不受不施派僧の墓 |
都道沿いの藪に埋もれるようにして残る腰掛石 |
三宅島の流人に関する史跡の一つがこの「井上正鐵の腰掛石」。阿古から伊ヶ谷に向かう途中の三宅循環(都212)線の路肩の藪の中に埋もれるようにポツンと腰掛石が残されていますが、気づかずに通り過ぎてしまいそうなスポットです。 井上正鐵さんと言われてもどのような人物であったのか、またここに残された「石」との関係はさっぱりですが、それは傍らに立てられた由来板を眺めれば分かりますよ。 |
水汲み女とのロマンも記されている由来板 |
井上正鐵の腰掛石の由来 | ||
井上正鐵(いのうえまさかね / 1790〜1849)は、江戸末期に活躍した 神道中興の祖と仰がれる禊(みそぎ)教の教祖である。 現在山梨県北巨摩郡小渕沢町高天原に鎮座する古神道本宮・身曾岐(みそぎ)神社に祀られている。 当時正鐵は、時の幕府の統制政策に触れる神道教化運動を展開したため、 思想的な危険人物として咎められ、三宅島に配流の身となったものである。 医者であり、科学者であり、国学者でもあった正鐵は、在島中に島民の教育・民生に寄与する傍ら、 養蚕を普及し、漁法の改良、治水を行ったりして島民の信望を集めることになった。 正鐵は三宅島に配流のおり初めは阿古に配置されたが、 後に彼の才能が島役人の知るところとなり、当時伊ヶ谷にあった島役所に書記として努めるように 処替(ところがえ)を命ぜられた。 しかし、彼には阿古に在住中水汲女のお初という娘が仕えており、 いとおしい彼女との惜別の情耐え難く、さりとて役人の命令には逆らえなかったために、 阿古に住んで毎日伊ヶ谷の島役所に通うため島道を通り、 その道すがら海の方を望むと遥か水平線の彼方に江戸が偲ばれるこの腰掛石に、 必ず腰をおろして休息したと伝えられる。 水汲女のお初さんのことを自ら綴った書状からも、人間としての正鐵の、 お初さんとのロマンの一端を現在に遺す唯一の遺跡として、 長く後世に残されるであろう記念石である。 ちなみに、正鐵の墓は噴火の前まで存在していたが、阿古の墓が噴火のため埋没したのは残念である。 三宅村 |
井上正鐵(いのうえまさかね)は館林藩の安藤真鉄(あんどうまがね /1753〜1827)の次男で、18歳の時から30年間諸国を巡り歩いて天保7(1836)年に自ら教学の一派をたてて武蔵国足立郡梅田村神明社の神主になった人物です。 三宅島に流されたのは、徳川幕府11大将軍家斉ならびに12代将軍家慶が在職していた天保年間の頃。天保の大飢饉など全国的な凶作が続き、大塩平八郎の乱が発生した時期ですね。一揆や打ち壊しが続出して騒然とした世相であったこの頃、天保12(1841)年に老中水野忠邦は状況を打開すべく天保の改革を実施しますが、正鐵さんが唱えた説は幕府の政策に触れるとして捕らえられています。そして天保14(1843)年に三宅島に配流された井上正鐵は、在島6年目の嘉永2(1849)年2月18日に61歳で没しています。 この石はそのような正鐵さんが在島中に愛した水汲女との別れを避けるため、仕方なく毎日阿古から伊ヶ谷まで通う途中で腰をかけて休んだ石というわけか。ただの石にしか見えませんが、実はそのような秘話が込められていたなんてね! |
由来板とその足元に置かれた腰掛石 |
というわけで、井上正鐵の人物像がわかったところで「井上正鐵の腰掛石」を眺めてみますが、由来板の支柱の足元に置かれた石がそれですね。しかし、思っていた以上に小さくて、案内板がなければ絶対にただの路傍の石にしか見えません。
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通勤途中の井上正鐵さんがルーチンワークで毎日必ず腰掛けていたとか |
正鐵さんが毎日阿古から伊ヶ谷まで島役所に歩いて通う途中で休憩用に腰を下ろしていたという腰掛石。「お、これはちょうどいいな」と、通りがかった時にたまたま見つけたのでしょう。そして必ずこの場所のこの石で休憩したというから、島役所に出勤する時には必ずここで休むというルーチンワークができていたと思われます。
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