処刑場跡
  三宅島の見所スポット 林道探索の書 〜今日もどこかで林道ざんまい〜 
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  伊ヶ谷エリア
  伊ヶ谷エリアの見所スポット
     1伊ヶ谷港
     2大船戸大橋
     3為朝の袂石
     4井上正鐵の腰掛石
     5生島新五郎の墓
     6処刑場跡
     7大林寺
     8竹内式部の墓
     9不受不施派僧の墓

大林寺の前にある陣屋と島牢、処刑場のあった場所

三宅循環道路(都212号線)沿いの伊ヶ谷集落から伊ヶ谷港に下って行くと浄土宗の大林寺があります。寺の入口は広場のようになっていますが、ここは江戸時代に陣屋と島牢、「処刑場」が置かれていた場所です。三宅島の5つの村にはそれぞれ村役所があって、島内5ヶ村の村役所を統括する島役所は神着村にありましたが、享保8(1723)年に伊ヶ谷村に移ってからは、陣屋と呼ばれるようになりました。

もともとは御用船の出入港の管理監督、幕府備蓄米の収納を行なっていた陣屋ですが、やがて地役人が常駐して一般行政をはじめ流人関係の行刑も行なうようになり、寺社奉行を始め勘定奉行、南北両町奉行、火付盗賊改役の支配を受けています。

島内の行刑については、村民や流人に関する事件や判事のうち軽微なものは「村仕置」といって村役所で処理しましたが、放火や殺人などの重犯罪については扱いを陣屋に移してこれを「島仕置」と呼びました。さらに抜舟と呼ばれる島抜けや島破りについては島仕置では処理しきれない最も重大な犯罪で、流罪の刑を下した機関に報告して下知を仰がなければいけませんでした。

その下知が到着するまでの間、留置拘束するための牢が陣屋の脇に建てられた島牢で、島牢の脇にあったのがこの処刑場です。






陣屋と島牢についての説明板が立っています
大林寺について
「陣屋」
元和9(1623)年徳川家光が3代将軍を継いだ年、
幕府は伊ヶ谷大船戸湾が自然に恵まれた良港であることから、御用船の取扱いを開始した。
伊ヶ谷村はこれを契機として三宅島交通の要所となり、
御用船の出入港を管理監督するために享保8(1723)年に至って陣屋が設置された。

陣屋は、大船戸湾普請に要する普請米や万一の事態に備えての幕府備蓄米を収納するなどのために設置されたが、
その後江戸からの流刑者などが増加したため地役人が常駐するようになり、
時には関所のような役割をはたすことになった。歴史の上ではこれを陣屋行政とよんでいる。

「島牢」
江戸中期(9代将軍家茂、10代将軍家治)になると流人の数が増加し、
中には希望を失って自暴自棄になり喧嘩、火付、窃盗などの再犯を重ねるものがしばしばいた。
これらの犯罪者を幕府または代官の決裁が到着するまで留置拘束するため、
明和2(1765)年に伊ヶ谷の大船戸湾に近い場所に公儀流人牢(島牢)が建てられた。

三宅村教育委員会
江戸時代の島の役所といえば神着の「島役所跡」が有名ですが、そちらは伊ヶ谷に陣屋が置かれるまでの場所。幕府の御用船が出入国するようになって伊ヶ谷が三宅島交通の要衝になると、役所の機能も陣屋の置かれた伊ヶ谷に移ったというわけですね。

しかし、地役人が常駐する三宅島支配の政治の場であった陣屋は知られていても、陣屋には流人や犯罪人を留置拘束する島牢があったことはあまり知られていないかも。






工作的に処刑された流人も多かったそうです
抜舟など島仕置では処理しきれない重大事件は、幕府関係機関に上申して下知を待たなければなりませんでした。しかし、実際には抜舟をした流人は下知の到着を待たずに島役人よって、病死ということにして処刑されることが多かったそうです。

その理由は簡単。上申しても下知の返答が到着するまで早くて数ヶ月もかかり、その間入牢させておく心理的、物質的負担は極めて大きく、さらに上申すれば、島役人および村役人が管理不行届で重く罰せられてしまいます。なので負担や面倒を避けるために病死ということにしておいた工作的な処断(処刑)がかなりあったらしいです。

そのようなことが続いたので、後年、抜舟犯の処置については「関係機関の下知を仰ぐまでもなく当該地で死罪に処しその顛末を報告すること」と変更されていますが、それでも事件の発生については島役人、村役人の管理不行届の責任が問われることについては、従来と変わることはありませんでした。

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