生島新五郎の墓
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海を見下ろす坂道の途中にある生島新五郎の墓

徳川幕府の大奥史上最大のスキャンダといわれる絵島事件の中心人物で、女性に扮する女方として江戸で絶大な人気を誇っていた歌舞伎役者の「生島新五郎の墓」です。当時江戸城の大奥で最高位の大年寄といわれる女中であった絵島との密会により三宅島に流罪となった江戸時代の俳優で、三宅循環(都212号線)線から伊ヶ谷港に下る坂道の途中、海を見渡す場所にお墓がたてられています。

絵島事件は時代劇ドラマ「大奥」などにも取り上げられおり、映画やドラマで観たことのある方も多いと思いますが、三宅島の流人の中では最も知名度がある流人といってもいいでしょう。それにしても江戸の人気アイドルのお墓がこんな場所にあったとは!






ソテツの生えるお墓の敷地には案内板が立っています

江戸時代、絶大な人気を誇ったアイドルらしく、三宅島に流された他の流人と比べて立派なお墓がたてられています。そしてお墓の前には新五郎さんの履歴と事件の顛末が記された説明板と絵島事件の詳細な説明板が設置されています。

現在ならば芸能ニュースやワイドショーで大いに話題となるようだけで済むようなスキャンダルですが、江戸時代にあっては島流しになるほどの衝撃事件だったんですね。






生島新五郎と絵島事件についての説明板
生島新五郎の墓
生島新五郎は徳川7代将軍家継の頃、江戸の山村座(現在の歌舞伎座附近にあった)で、
濡れごとの名手とうたわれた人気俳優であった。

将軍家継の生母、月光院に仕える大年寄絵島と激しい恋におち、
これが原因で正徳4年正月(1714)千五百余人が処罰されるという絵島事件を引き起こした。
新五郎はこの事件により三宅島に流罪(43歳)となり、
在島実に二十数年享保18(1733)年2月(60余歳)配流の地伊ヶ谷で生涯を閉じたのである。
贈って教誉道栄信士という

「花の絵島が唐糸(からいと)ならば たぐりよせたい膝元へ」

遠く信州高遠へ流された絵島を偲んでうたったこの歌の心は哀れである。
三宅村
奈良時代にまで遡る三宅島の流人の歴史の中で、明治3(1872)年に最後の流人が三宅島に流されるまでにおよそ2300人の流人が島に流されています。そのまま赦免されることなく島で果てた流人の数は数えきれませんが、三宅村指定文化財に指定されて現在までお墓が残っているのは、生島新五郎を含めてほんの一握りの著名な流人だけです。

ただし、生島新五郎については絵島が配流先の信州高遠で死んだ翌年の寛保2(1742)年に8代将軍徳川吉宗によって赦免されて江戸に戻り、73歳で正徳4(1714)年に江戸で死去した説もありますが、なぜかお墓はここ三宅島にあるんだよな。






絵島事件についての詳細な説明板が立っています
絵島事件について
生島新五郎は江戸山村座の歌舞伎役者で和事(濡れごとともいう、恋愛もの)の名手という評判をとった人気役者である。
大阪生まれで前名を野田蔵之丞といい屋号を三浦屋とよんだ。女形の生島大吉はその弟である。

6代将軍家宣の側室月光院(お喜代の方)は7代将軍家継の生母である。この月光院に仕える絵島は
大奥女中の最高位大年寄で表高は六百石(実収は三千石)、
出入の行列は10万石の大名と肩をならべ月光院に継ぐ大奥の権勢家であった。

徳川幕府も元禄時代(5代綱吉)に入るとすでに地盤も固まり打ち続く太平の夢に馴れてすべてが贅沢になり
特に大奥に仕える女中の乱行が噂にのぼり人々の顰蹙(ひんしゅく)をかった。

正徳4(1714)年は7代将軍家継の世代である。しかしこの将軍は4歳という幼年で
将軍とは名ばかりの存在でその実権は生母の月光院と御側用人間部詮房(まなべあきふさ)の手中に握られていた。
大奥三千人と言われる女護ヶ島の中に男と名のつく者は4歳の将軍家継と間部詮房の二人だけで
このような環境の中でなにが起こりどんな絵巻がくるひろげられていたかはうかがい知れない謎であるにも拘らず
月光院と間部詮房の醜聞がとりざたされた。

6代将軍家宣の後室天英院は正室という権力の座にありながらもその力を行使できない状況にあまんじる立場であった。
しかし月光院と間部詮房の醜聞を機会に二人に失脚を狙って暗躍をしたが
月光院は側室とはいっても現将軍の生母でありその傍らにいる大年寄絵島は気にかかる存在である。

このような折に絵島と三浦屋こと生島新五郎を近づけたのは浅草に薪炭商を営む柄屋(つがや)善六(栂屋ともいう)である。
柄屋は大奥に納める薪炭類の販売を一手に握らんとして権力者の絵島に近づきこれを芝居に誘った。
収賄事件の江戸版である。
絵島と生島新五郎の出会いがありやがて起こる絵島事件の発端である。

当時の社会通念からいえば大奥に権勢を誇る大年寄と名優とはいえ河原者とさげすまれた役者生島の恋が許されるはずがない。
天英院側がどれほど暗躍したかは定かではないが絵島事件によって大奥粛静の網にかかった者は1500人と噂され
その中で流罪に処せられた者は絵島、生島を含めて90人といわれる。

大奥史上空前最大の事件といわれる絵島事件はかくして起こったがその内幕は単なる恋愛事件にとどまらず
権力、利権の葛藤が主因をなしていたことがうなずける。

絵島は権力の座から罪人の座に急転直下して信州高遠の里に永遠流となり、享保元年(1741)4月10日
波乱にとんだ61年の生涯を「コヒガン桜」と共に散らした。
信州高遠は内藤駿河守を領主と仰ぐ三万余の小藩で江戸から離れた山間道の城下町である。
はるかに歴史をさかのぼれば天正10年(1582)の昔、
城主仁科盛信(武田信玄の五男)が織田一族の野望に恨みをのんだ古戦場でもある。
素朴で人懐こく一家族のように寄り添って暮らす高遠の人々に接した絵島は
葛藤の中からのがれた心の安らぎを覚えていたのかもしれない。

雁が渡るに出てみよ絵島 今日は便りがきわせぬか

高遠の里にいまも歌い継がれているこの歌心は罪人絵島に注いだ思いやりから生まれたものであろう。
生島新五郎は三宅島に配流されて、享保18(1733)年2月26日に63歳の生涯を終わった。

花の絵島が唐糸(からいと)ならば たぐりよせたい膝元へ

三宅島に残る民謡「絵島」の一節である。生島新五郎が潮騒にあけくれる配所において絵島を偲んだ恋慕の曲だろう。
絵島事件は江戸城大奥の退廃と大奥を舞台とした権力、利権の渦巻の中から発生した事件である。
粛静の浪に巻かれた絵島、生島はただ哀れというほかないが高遠町と三宅島友好の絆を取り持った事件と言える。
三宅村
生島新五郎の墓の敷地内には絵島事件についての説明板が立っていますが、びっしりと細かい文字でかなり詳しくその内容が記されていました。

一般的には男女の恋愛スキャンダルとされている絵島事件ですが、その背後には大奥女中絵島の仕えた月光院と後室天英院との権力争いがあったようです。相手の失脚を狙って絵島さんと新五郎さんとの仲が利用されたというところですね。






新五郎さんのお墓は三宅村指定文化財になっています

享保18(1733)年2月26日、生島新五郎は61歳で三宅島にて死去していますが、流人の中では現在までお墓が残り、手厚く葬られているだけ恵まれているのかもしれません。お墓には花が手向けられて敷地はきれいに保たれているので、流人の墓に漂う悲痛なうら悲しい暗さがあまり感じられなかったです。

ちなみに一方の絵島さんは現在の長野県伊那市高遠町に配流となっているので、三宅島にそのお墓はありませんが、事件の生島新五郎と絵島の縁で、昭和45(1970)年に三宅村と高遠町(現伊那市)とは友好町村盟約が結ばれていたりします。

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