不受不施派僧の墓
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  伊ヶ谷エリア
  伊ヶ谷エリアの見所スポット
     1伊ヶ谷港
     2大船戸大橋
     3為朝の袂石
     4井上正鐵の腰掛石
     5生島新五郎の墓
     6処刑場跡
     7大林寺
     8竹内式部の墓
     9不受不施派僧の墓

伊ヶ谷集落の都道沿いにある僧侶たちの流人墓

三宅循環(都212号線)線沿いの伊ヶ谷バス停そばにあるのが「不受不施僧の墓」。都道の道路脇にある階段を登った場所にひっそりとあります。

三宅島への流刑の歴史は奈良時代にまで遡り、719(養老3)年に多治比真人三宅麻呂(たじひのまひとみやけまろ)が謀反に連座して三宅島に流されたのが流人第一号で、記録には1870(明治3)年の最終流人まで1329人が記録されていますが、最も多く流人が流されたのは江戸期のこと。そして同じ流刑でも伊豆諸島の場合と佐渡島では根本的に異なっていたらしいです。

佐渡島の流人は犯罪者ではなくて、江戸市中などの無宿者が強制労働の就労者として送られたのに対し、伊豆諸島の流人は時の権力者や徳川幕府の掟に触れた犯罪者でした。そこには武士や百姓、町人、僧侶、医師、女性、無宿人が含まれますが、意外と多かったのが僧侶の島流しです。

切支丹と共に日蓮宗の不受不施派が禁教とされたことから、1876(明治9)年に信教の自由が獲得されるまで多くの僧侶が流罪になっています。伊豆諸島の島々に流罪となった僧侶のほとんどがそのためですね。






日蓮宗「不受不施派」についての説明板
不受不施派僧の墓
「不受不施派」とは文字通り、
「僧は信仰のない者からは一切の施し物を受けない。また無縁の者には一切の施しをしない」
という教えを固く守ってきた日蓮宗の一派であり、
総本山を妙覚寺といい岡山県岡山市御津に今でも残っている。

文禄4年(1595年)豊臣秀吉は、京都の諸寺院に対して大仏開眼の大法要を執行するので
必ず出席するよう布告を発した。不受不施派の諸寺院ではこの行事に参加すべきか否かについて大激論を交わしたが、
同派16寺院のうち1寺院は「如何に秀吉の命であろうと宗法はめげるべきでない」として
この大法要に出席しないことを決めたのである。

こうして宗法を固持し、秀吉の命に従わなかった僧侶17名が三宅島に遠島を命ぜられたのである。
この事件が発端となり寛文5年(1665年)には、不受不施派は切支丹と並んで禁教となり厳しい弾圧を受けることとなった。
明治9(1876)年、信教の自由を獲得するまでの280年間に処刑された者が156名、
三宅島に流刑された者が33名にものぼったという。
三宅村
流刑となった僧侶の中には女犯の罪を犯したものや、破戒僧的な者もいたでしょうが、ここに眠っているのは日蓮宗の不受不施派という教団の僧たち。不受不施派の何が問題だったのかというと、早い話が法華経のみが唯一として他の宗派を攻撃するなど、過激すぎたというわけ。その結果、同派の多くの僧侶が死罪や流罪になっています。






狭い墓地の白洲に並ぶ無数の墓石

都道脇の小さな階段を登ると、狭い墓地の敷地に無数の僧侶たちの墓石が立ち並んでいます。しかし、島で死亡した当時は塔婆が立てられなかったことも多かったらしく、後に島外から石を運んで墓石としたり、島流しとなった僧侶の地元の村に「隠し墓」が建てられることもあったそうです。






境内に立つ大林寺の由来板
本妙院 日珠聖人
宝暦13(1763)年、岡山藩医井上立庵の子として生まれる。
12才で日範より得度、字を了本と号す。のち日恩に師事し本妙庵6世となる。
やがて應智院日縁聖人の後を受け21才にて祖山第33世となる。

寛政5(1793)年諫暁書「法華真正行」を携え寺社奉行へ出訴。
禁制の「不受不施派僧」と名乗り再興を訴え捕らわれ、翌年31才にて三宅島へ流罪となる。

聖人は、度重なる弾圧で寸断された内信組織の立て直しと、画一された不受不施派の内信規則を定め、
ここ三宅島から全国の信者を指導・教誡・観信し、統一していった。

文化14年12月15日(1817)55才にて伊ヶ谷の草庵において入寂。
平成28年10月 吉日
日蓮宗不受不施派立正護法会建立
三宅島に流罪となった不受不施派の僧侶の中で代表的な人物が「本妙院日珠」で、配流先の三宅島にいながらにして教団の教えを本土に指示していたそうです。1793(寛政5)年9月に三宅島に流罪が決まった時、応智院日縁が親しい御蔵島の船頭や船主を三宅島に派遣し、島での暮らしについて周到な配慮をさせています。

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