火山体験遊歩道2
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     22 荒島神社
     23 阿古集落跡

今にも流れ出しそうな溶岩

雄山の山腹に出現した火口列より流れ下った溶岩流。眺めているこの瞬間にもこちらに向かってドロドロと押し寄せてきそうな雰囲気ですが、まるでその瞬間の時間をストップさせたみたい。遊歩道のある溶岩原にはこのような溶岩が数メートルにも渡って堆積しているのですが、信じられないほどの溶岩の量です!





溶岩流の力を思い知らされる凄まじい埋もれ方をした体育館

凄まじい破壊のされ方をしていた体育館。振り返って眺めてみてもその惨状がはっきりと見てとれます。全壊は免れていますが、ここまで溶岩にのみ込まれてしまうと、溶岩を除去するのはもう無理。撤去されることなく当時の姿のままで今もそこに・・・。





こちらは埋没した阿古小学校の説明板

火山体験遊歩道を歩こう
〜溶岩流のすさまじさと噴火災害を体感する遊歩道〜
1983年(昭和58年)当時の阿古小学校

当時、阿古小学校は生徒数99名、教職員16名でした。噴火の前日、
10月2日は小中学校合同運動会が行われました。運動会当日は真夏を思わせる蒸し暑い晴天お日であり、
絶好の運動会日和。高低では生徒たひが元気に力いっぱい競い合い、
お父さんやお母さんから大きな声援の声が響いていました。

[ 火山トピック ]溶岩樹型 Lava Tree Mold
ちくわのような形の溶岩「溶岩樹型」をさがしてみよう!

ちくわのような形の「溶岩樹型」はどうしてできるのでしょう。溶岩の流れが樹木を取り巻いてきた時、
生きている樹木は水分を豊かに含んでいるため、熱い溶岩が冷やされてかたまります。
その後、中の樹木は消失したり朽ちて、まるでちくわのような管状の溶岩が作られるのです。

火山体験遊歩道沿いにでも観察することができます。
いくつ見つけることができるでしょうか。さがしてみましょう!

溶岩に埋もれずに残された校舎の外階段

阿古小学校跡まで歩いてきました。小学校跡も押し寄せた溶岩流に半ば埋もれていましたが、埋もれ方は中学校跡ほどではなかったみたい。塀で守られたのか、校舎の外階段がそのまま残っていました。でも鉄筋コンクリートの外観は歳月の経過で劣化していますね。白いコンクリ片がいくつも剥離して溶岩の上に落ちています。





校舎二階の窓の高さにまで迫った溶岩流

うわー、これは強烈です! 阿古小学校へと襲いかかって校舎の二階部分の窓にまで迫った溶岩流ですが、これは危機一髪! なんとか窓の部分で溶岩流は留まったみたいですね。教室の窓は外枠部分のみが残って教室内も遊歩道から見えています。しかし、校舎が完全に埋まっていないからこそ、逆に溶岩流の凄さが際立ちます。





普通の岩石とは見た目も違う阿古小学校を埋める溶岩

阿古小学校の校舎跡を取り囲む大量の溶岩ですが、大小様々、その形も特徴的なものばかりです。刺々しくて多孔質の溶岩に混ざってなぜか表面がつるっと滑らかな溶岩などがメチャクチャに堆積していました。眺めて飽きませんが、阿古小中学校跡付近にはこういった溶岩が10m以上も堆積しているなんてちょっと信じられないな〜。





教室内には残された黒板も見えていました

教室の窓のすぐそこまで押し寄せ、窓枠を突き破って今にもなだれ込みそうな溶岩流。遊歩道からは教室の黒板も見えていますが、溶岩流が押し寄せた時にその熱で教室内で火災は発生しなかったのでしょうか?

このように教室内は溶岩に埋もれることなく残されていますが、でもここは校舎の二階の教室です。一階の教室は完全に溶岩に埋まって見えていません。





広大な溶岩原に延びる遊歩道の木道

生々しく残された阿古の小中学校跡に噴火の凄まじさを体感したら、さらにその先へと遊歩道を歩いて散策します。遊歩道は小中学校跡の前を通って再び遊歩道入口へと戻るコースで周回していますが、 途中で分岐してそのまま溶岩原を横切って都212号線方向にも続いているので、今度はそちらに進んでみます。

しかし、広大な溶岩原を横切るこの火山体験遊歩道ですが、日陰地点がまったく無かったです。気候の穏やかな春はいいですが、太陽ギラギラな真夏の日には直射日光と溶岩の照り返しの熱気の暑さでうだってしまうかも・・・。





とてもじゃないけど立ち入れない溶岩原を木道から間近に!

分岐した遊歩道から見えるのは果てしなく続くゴツゴツな溶岩のみ。遠くから眺めたり見下ろすと平でなだらかに見える溶岩原ですが、実際の地面は大小の溶岩が大量に堆積したこのような状況になっています。 そしてこの溶岩の下には1983 (昭和58) 年の噴火以前そこにあった阿古の集落が埋まっているんだよなぁ・・・。

溶岩原は木道から眺めるだけでも圧巻ですが、とてもじゃないけど、スニーカーやハイヒールで気軽に立ち入れる状況でないこともまた分かりますね。





遊歩道の途中には溶岩の説明板も立っています

火山体験遊歩道を歩こう
〜溶岩流のすさまじさと噴火災害を体感する遊歩道〜
[ 火山トピック ]溶岩のメカニズム Mechanism of the lava
アア溶岩 aa lava
今、この溶岩原には表面がごつごつとしたとげとげしい多孔質な溶岩が広がっています。
しかし、内部は均質でちみつな岩石となっています。このような溶岩は、火山用語で「アア溶岩」と呼ばれています。
「アア溶岩」という名の語源は、踏んだら足の裏が非常に痛かったので
「痛い」という意味の言葉をあらわすハワイの言葉からきています。また、三宅島では観察されることはまれですが、
表面が滑らかで波状や縄状の模様が見える溶岩のことを
同じくハワイ語を使って「パホイホイ溶岩」( pahoehoe lava )と呼んでいます。

アア溶岩の表面
表面は空気にふれて早く冷え固まりますが、内部は流動的で、固まった溶岩を崩し壊しながら進んでいきます。
その結果、表面と底面には多孔質でとげとげしい溶岩のかけらが重なり、
内部はゆっくり冷えて、均質でちみつな岩石になります。

溶岩原に生きる植物 ハチジョウイタドリ(タデ科イタドリ属 Reynoutria japonica var. terminalis )
溶岩原を見わたすと所々に緑の島を見ることができます。
溶岩原に生きる植物のうちのひとつに「ハチジョウイタドリ」があります。ハチジョウイタドリは1m以上もある
長く太い根で溶岩を突き破り、その下にある土から栄養分を吸収します。
このような溶岩原に生える植物の葉が枯れて腐り溶岩の上に土を作り、続いてその土に低木の樹木が生えてくるのです。
これを繰り返し、小さな植物の誕生から数百年という長い年月をかけ、森が再生していきます。

アア溶岩の広がる溶岩原とそこに生えるハチジョウイタドリ

都道方向に向かって延びる遊歩道から後方を眺めてみると、ゴツゴツな溶岩原の向こうに太平洋の海原を背に阿古中学校跡の建物が見えていました。あそこからここまで歩いて来たわけですが、付近を凄まじい量で埋め尽くす溶岩は火山用語で「アア溶岩」といいます。刺々しい溶岩は足で踏むと痛いので、「痛い」という意味のハワイ語がアア溶岩の名の語源になっているらしいですよ。

溶岩原の所々に見えている緑の塊はタデ科の「ハチジョウイタドリ」。硬い溶岩層を突き破ってその下の土まで根を伸ばして生えるたくましい植物で、このような植物が枯れて溶岩の上で土となり、その土に今度は樹木が生えてきます。このサイクルを何百年という長い年月をかけて森は再生するんですね。





一つとして同じ形のない溶岩に驚くばかり!

なんだこれ? 鋭く天に突き上げるように奇妙に造形された溶岩もありました。しかしどうやったらこのような形になるのかな〜。間近に眺める溶岩の迫力に立ち止まって眺め入ってしまいますが、おかげで遊歩道を巡っていても飽きがきませんでした。





噴火当時の避難状況を記した案内板もあります

火山体験遊歩道を歩こう
〜溶岩流のすさまじさと噴火災害を体感する遊歩道〜
当時の人々の暮らし

阿古集落は、1983年(昭和58年)噴火当時、約520世帯、1300人の人々が生活していました。
阿古の人々は明るく元気の良い気質。
そして、阿古地区は観光や漁業等の中心地であり、また各家庭にも温泉が引かれていました。
観光客や島内の他の地区から温泉につかりに来る島民もいるような
「阿古温泉郷」と呼ばれる集落だったのです。

[ 火山トピック ]阿古集落の人々の避難 The evacuation from the Ako area
賑やかな阿古集落が、10月3日の噴火により一日にして姿を変えてしまいました。
15時15分頃割れ目噴火が発生し、この噴火による溶岩が阿古集落に流れ込んだのが噴火から約2時間後、
これは阿古集落から最終の避難バスが通過した、たった10分程の出来事でした。
その後も最後まで阿古集落に残っていた消防団・警察・医者・教職員の人々は、すでに伊ヶ谷・坪田方面とも道路は
溶岩流でふさがれてしまったため、漁船で海からの避難を行ったのです。

阿古集落をのみこんだ溶岩は、しばらくの間熱を持ちつづけ、噴火後約3カ月後でも溶岩の上を歩くと、
靴の底のゴムを溶かすほどの熱を持っていたということです。

11月末には.阿古下錆地区と神着湯舟地区に仮設住宅が建設され、その後2年間、被災した住民は
仮設住宅での生活を余儀なくされました。阿古下錆地区には小中学校のヶ説校舎も作られ、仮設住宅で生活を送る人々は
学校から聞こえてくる子供たちの元気な声や歌声に元気付けられ、
また励まされていたということです。

ここはかつて阿古温泉郷と呼ばれていたけれど・・・

都道側の火山体験遊歩道の出口です。1983年(昭和58)年の噴火までは三宅島の観光と漁業の中心地として賑わいをみせ、阿古温泉郷と呼ばれていた阿古の集落。今はそこに荒涼とした溶岩原が広がるのみで、当時の面影を偲ばせるものは小中学校跡の他になにもなく、そこに淋しく遊歩道の木道が延びて来ている様子が分かりますね。

というわけでここが都道側の遊歩道で愚痴ですが、こちら側には案内板が立っているだけで駐車場はありません。また、都道から少し引っ込んだ場所に位置しているため、遊歩道を訪れる場合は阿古小中学校跡側からの方が分かりやすいと思います。





遊歩道沿いの説明板で当時の状況が分かります

火山体験遊歩道を歩こう
〜溶岩流のすさまじさと噴火災害を体感する遊歩道〜
三宅島は海底部分まで含めると直径25km、高さ1200m程の火山島です。ここ約100年間では
1940(昭和15)年、1962(昭和37)年、1983(昭和58)年、2000(平成12)年の4回の噴火が起こりました。

火山体験遊歩道は1983(昭和58)年に発生した噴火により阿古集落をのみ込んだ溶岩流の上に造られた遊歩道です。
火山体験遊歩道を歩きながら、火山島三宅島の噴火の威力と溶岩流のすさまじさを体験し、
また三宅島の人々と噴火の関わりを感じてみましょう。

[ 火山トピック ]1983年(昭和58年)噴火と阿古集落の被害 Eruption of 1983 and damage of the Ako village area
1983年(昭和58年)10月3日15時15分頃、雄山の南西山腹の二男山付近に割れ目噴火が発生し、
高さ数十メートルに及ぶ灼熱の溶岩を吹き上げ、溶岩が流れ出しました。
島の南西海岸にまで拡大した火口列からあふれでた溶岩は3方向に流れ出し、噴火開始から2時間後には
一周道路(都道)をこえて、この遊歩道の位置する阿古地区に流れ込みました。

当時、観光や漁業の中心であった阿古地区には約520世帯、約1300人の人々が生活していました。
溶岩流は住宅や学校をのみこみ、
340棟が溶岩流及びその熱で全壊全焼という甚大な被害をもたらしました。

しかし、幸いにして防災関係機関や住民の円滑な対応により人的な被害は免れたのです。
死者ゼロの秘密は、住民の沈着冷静な行動と、昼間だったこと、そしてこの年の8月24日に行われた
防災訓練の成果などがあげられます。

また、この噴火の際には、溶岩の進行を阻止するため、
前進する溶岩に放水して冷却させる試みが、日本で初めて実行されました。

かつて阿古集落の520世帯、1300人の人々が生活していた場所

都道側の火山体験遊歩道の出口地点から道路を挟んで反対方向、すなわち雄山のそびえる山側を眺めてみますが、こちらもとてつもなく広い溶岩原が広がっていました。迅速な避難活動により死者こそ出ませんでしたが、 340棟がこの溶岩流にのみ込まれたり、または灼熱の高温で全焼してしまったといいます。

そして阿古の集落をのみ込んだ溶岩は、噴火して3カ月が経過した後もかなりの熱を持ち続け、溶岩の上を歩くと靴底のゴムが溶けてしまうほどだったそうです。

圧倒的な噴火の威力と溶岩流の凄まじさを体感するには十分過ぎる光景に唖然とするばかりでした。三宅島には過去の噴火跡を見られるジオスポットがいくつもありますが、それを巡らなくても噴火の凄さを知るにはここだけで事足りるくらい!

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