阿古エリア 阿古エリアの見所スポット 1錆ヶ浜船客待合所 2阿古漁港 3いきいきお魚センター 4土屋食品 5三宅島郷土資料館 6ふるさとの湯 7ふるさと味覚館 宙 - SOLA - 8レンタバイク朝信 9火山体験遊歩道 10 富賀神社 11 富賀浜 12 新鼻 13 新鼻新山 14 錆ヶ浜 15 夕景浜 16 人形岩 17 村営牧場跡 18 噴火災害保存箇所 19 笠地観音と若返りの珍木 20 差出神社 21 火戸寄神社 22 荒島神社 23 阿古集落跡 |
有効な移動手段がないととても行きにくい場所にある村営牧場跡 |
平成12(2000)年に発生した雄山の噴火で壊滅した三宅村村営の牧場がその姿を晒している場所が「村営牧場跡」です。三宅島の噴火の痕跡を間近に眺められるスポットとしては、「火山体験遊歩道」が阿古の集落からも近くて人気ですが、それに引けを取らないのがこの村営牧場。 雄山の中腹に広がる広大な村営牧場跡は七島展望台からよく見えており、初めて訪れると噴火の凄まじさと眺める景観のスケールの大きさに必ずや圧倒されてしまいます。でも村営バスもここには通っていないのでアクセスは悪いです。バイク持参やレンタルスクーター、もしくはレンタカーでならば気軽に訪れられますが、徒歩だとそこまでの距離が、自転車だと延々と続く登り坂に泣かされることになります。 そのためエンジン付きの移動手段を持たない観光客が訪れることは少なく、誰もいないことの方が多くて人の姿も本当にまばらです。でも快晴の日に眺める展望台からの眺めは最高に素晴らしいので、訪れるだけの価値はあると思いますよ。 |
噴火以前は大勢の観光客が訪れたレストハウスの残骸 |
七島展望台への入口にある村営牧場跡に面したレストハウス。といっても、噴火で焼け落ちて今は赤茶色にサビた鉄骨の残骸を残すのみ。村営牧場の観光施設は全滅して今は自販機一つありません。広大な景色の中にレストハウスの残骸が寂しく残ります。 ちなみに、村営牧場があるだけあって昔の三宅島では牧畜が盛んだったようです。明治43(1910)年に始まったバター製造が成功し、大正8(1919)年には三宅島畜牛畜産組合が発足して酪農は島の基幹産業になりました。 その後の第二次世界大戦や、離島ならではの不利な条件によって三宅島の酪農業は衰退しましたが、いわゆる離島ブームの到来によって観光産業が活気づいたことにより、再び三宅島の牛乳需要は一気に高まったそうです。 |
無残な鉄骨姿を晒すレストハウス跡と七島展望台のあるスコリア丘 |
あぁ、無残。間近に眺めたレストハウ跡はこのように鉄筋を残すだけです。迫る溶岩の熱で建物は焼け落ちてしまい、骨組みだけが今もその姿を晒しているんだよな〜。 以前はここで三宅島産の新鮮な牛乳なども売られていたのでしょうが、今は公衆トイレがあるだけで自販機の1台すらありません。訪れる際は飲み物持参をお勧めします。 |
一度は再建されたのに二度の噴火でこのように・・・ |
七島展望台への道から振り返った村営牧場跡。レストハウスの残骸や牧場の青いタンクなど、荒涼とした寂しい景色がどこまでも広がっていますが、それにしてもこの場所は噴火で本当になもなくなってしまった感じです。 このように平成12(2000)年の雄山噴火で壊滅してしまった村営牧場ですが、実はそれ以前の昭和58(1983)年の雄山噴火でも大きな被害を受けています。でもその時は島民の必死の努力によって、また、復興の象徴として土質改良と造営がなされて村営牧場は平成7(1995)年頃から営業を再開しています。同時にふれあい牧場としても運営されるようになり、公益牧場としての整備運営が推進されたそうですよ。 |
噴火で大量に積もった溶岩とスコリアに囲まれたテニスコート廃墟 |
昭和58(1983)年の雄山噴火からの復興後には、広大な村営牧場に観光施設として牧場公園が開設。ポニーやヤギ、ニワトリ、ウサギなどの小動物とのふれあい施設や畜産展示資料館など、観光の目玉となるスポットが点在していたようです。 実際、どれほどの利用客があったのかは疑問ですが、牧場公園にはテニスコートもあったらしく、七島展望台への道すがらにはコンクリート廃墟と化した敷地が見えていました。でも周囲はおびただしい溶岩とスコリアに取り囲まれて、そこへと至る道はなくなっており、今はそこがどのようば場所であったのか分からなくなっています。 |
黒々とした溶岩に覆われて噴火当時の様子が想像できる村営牧場跡の眺め |
七島展望台へと続く坂道から村営牧場跡を再び眺めてみますが、関連施設の残骸の周辺には黒い溶岩が至るところに見えています。異様な光景ですが、牧場が噴火で真っ赤にメラメラと燃える溶岩流に襲われた状況が想像できますね。 三宅島の牧畜の歴史は古く明治にまで遡り、それ以前から島内で酪農は行われていましたが、三宅村に村営牧場ができたのは昭和43(1968)年3月のこと。農業構造改善事業によって牧舎や牛舎などが雄山の中腹に作られています。 |
三宅村営牧場の象徴たる青いサイロが今も残ります |
広大な村営牧場跡の中にポツンと残る青いサイロ。「三宅村営牧場」と「わくわく椎の木ランド」の文字が見えますが、広大な荒地と化した牧場跡の中ではとても目立っています。村営牧場は牧場公園の名称で観光施設的なイメージが大きいですが、元々は東京都内の酪農家が生産した乳用雌子牛を育成する受託事業を行なっていたみたい。 昭和58(1983)年に発生した噴火以降も、復興後は農家の受託牛を始めとして村有牛など約100頭を飼育していたそうです。それが平成12(2000)年に発生した2度目の雄山噴火によって牧場施設は壊滅して三宅村営牧場は閉園。島内に存在した他の畜産農家も畜産経営から撤退してしまったんだよな〜。 |
村営牧場跡に立つ電柱は観測装置の電源? |
そのようなわけで平成12(2000)年の噴火後は無人の荒野となって、もはや残骸以外になにもない場所のように思ってしまう村営牧場跡ですが、ここには気象庁の「レストハウス観測点」が設けられているみたいです。 その目的はもちろん火山活動状況の監視。平成13(2001)年3月から火山ガス濃度の観測が始まり、具体的には二酸化硫黄の濃度を電気化学式で観測し、2分毎の瞬間値をもとに1時間あたりの観測値を算出しています。以前は安全のためにガスマスクが必要な時期もありましたが、今はそこまでの濃度はないので大丈夫ですよ。 また、音波を上空に発車して大気の成層状態、風向、風速を観測するドップラーソーダーと呼ばれる観測装置が設置されているらしく、装置がたまに発する電子音が、緊急警報のように聞こえてちょっと気味が悪かったぜぇ。 |
内部は焼けて廃墟となってしまった牧場公園の管理事務所 |
島を周回する雄山環状林道沿いに残るこの廃墟は牧場公園の管理事務所だったそうです。コンクリート造りの外壁はそのまま残りましたが、内部は内部はいわゆる一般廃墟のそれと同様。ゴミが散乱しており、わざわざ眺めるほどの物はなにもありません。
噴火でことごとく破壊、消失してしまい、無言のままむき出しでその姿をさらし続ける関連施設の数々ですが、その中で唯一残された観光スポットが「七島展望台」というわけ。なお、噴火では建物と共に道路も破壊されましたが、ズダズダになっ道路も、さすがに今は雄山環状林道として整備されているので安心してください。 |
火砕流や泥流、降灰で埋め尽くされていた管理事務所 |
あぁ、これは酷いや・・・。廃墟となった管理事務所の裏手に回ってみますが、大量の火砕流や泥流、降灰が堆積して付近一帯は埋め尽くされていました。 このように平成12(2000)年の噴火は、牧場施設に壊滅的なダメージを与えましたが、飼育されていた多くの家畜も犠牲になっています。半数以上が置き去りになって死んでしまったとのこと。治山ダム建設のために村営牧場跡周辺の火砕流を掘ると、埋もれてしまった牛の屍が出てくると言われているそうです。 |
もはや都会の青少年が心身を鍛えることはできなくなりました |
そして牧場公園管理事務所跡から少し離れた場所にあるのが「三宅島青少年研修・スポーツセンター」跡です。鉄筋コンクリート造りで宿泊室や食堂、浴場、トイレに管理室があって収容定員は35名。この施設は都会の青少年が三宅島の美しい海ときれいな山の空気で心身を鍛錬するための施設だったみたい。 しかし、施設は噴火の噴石や泥流によって破壊焼失。その後は火山灰や泥流が厚く堆積してしまい、このように打ち捨てられたまま・・・。 |
今もそのまま残る牧場公園健在の頃の案内看板 |
そして村営牧場跡には当時の案内図の看板が風雨に晒されて古ぼけた姿で残っており、噴火で消滅してしまった様々な施設がそのまま記載され続けています。 案内図には「タマアジサイ群生地」や木イチゴ群生地、三宅村ふれあい広場、レストハウスなどが記されており、これによれば村営牧場の中の一角が公園とされていたのではなくて、その全域が牧場公園とされていたようです。そこがちょっとわかりにくいですが、今も残る看板によって当時の様子を思い浮かべることができると思います。 昭和58(1983)年の噴火後には再建された村営牧場ですが、平成12(2000)年の噴火以降については再建される兆しはまったく見られません。一度は再建したのになぜかと思ってしまいますが、それは平成12(2000)年噴火以、村営牧場跡の大半が防災のための治山施設や砂防ダムの建設エリアに組み込まれたためなんですね。なのでもう再建は望めないみたいです。観光施設よりも自然災害に対する備えですね。 |
村営牧場内のあちこちでみられる割れ目噴火の火口跡 |
村営牧場跡に生々しく残る噴火の傷跡。平成12(2000)年の噴火で発生した割れ目噴火の跡ですが、深いクレバスの中に砂防ダムが建設されているのを見つけました。 噴火は収まっても、その後の土石流発生の原因にもなっているので、防災施設の建設は重要というわけ。村営牧場の跡地のほとんどがその建設エリアに入ってしまったため、とてもじゃないけど再建は難しんだよな〜。これを眺めれば納得です。 |
今もそのまま残る牧場公園健在の頃の案内看板 |
牧場公園の案内図に記されている「三宅村ふれあい広場」付近の現在の様子ですが、このように当時の施設は完璧なまでに無に帰しています。 ちょうど青いサイロに記されていた「わくわく椎の木ランド」があった辺りですが、その痕跡はなにも残っていませんでした。ただただ噴火の凄まじさに圧倒させられてしまう風景が広がっているのみです。雄山環状林道をたどると通りがかりますが、大抵の方はかつてここに椎の木ランドがあったとはまず気がつかないと思います。 |
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